『紅い梅の木と白鳥』 ::: 一 :::
by 白菜




白鳥は、北の方の海にばかり棲んでいるのではありません。梅の木の下にも棲んでいたのであります。

梅の花の色は、白うございました。昼間は紅い色を魅せるその花は、月の光を浴びると、白く輝くのでございます。
ある時、木の下に、女がうずくまって、あたりの景色を眺めながら休んでいました。
雲間から洩れた月の光がさびしく、細い枝を照らしていました。

寂しいけれど、なんと美しい景色だろう―――
女は、漆黒の髪をして、その髪と同じ色の衣を纏っておりました。長い袖にくるぶしまで隠れる衣でうずくまっておりますと、羽を畳み腹を膨らませ坐っている鳥にも見えるのでございます。
女は、はあ、と浅い息を吐きました。額に光るのは、うっすらと滲み出る汗でした。
膨らんだお腹の下を、支えるように右手で何度もさすっております。

女は、身ごもっておりました。

私は、元に棲んでいた世界にはもう戻れない。人間の世界は、愚かな汚らしい処だと言われてきたけれど、降りてみれば、こんなに美しい風景と、やさしい人間ばかりに出逢ってきた。
私が生まれた世界は、羽をぴいんと伸ばして自由に空を飛び、地上へ、天へと何処にでも行くことが出来たけれど、ひとつの処に留まり季節を感じることも、同じくらい仕合わせだ。
人間を愚かな生き物、だという元の世界でこの子を育てたくはない。けれども、私は人間の子どもを宿してしまったから、あの世界に帰ることは無いし、私がかつて棲んでいた、あの村も追い出されてしまった。どちらにも見つかれば、この子の命も危ういであろう。
私はどうなってもいい。この子が健やかに仕合わせに育ってくれれば。

女の息が、はあはあと乱れて行きます。
その吐息に合わせて、女の廻りに黒い羽が幾つも舞います。

女は、黒鳥でした。いきむ度、女の二の腕に羽が生えて参ります。

私は、二度とこの子に逢うことは叶わないけれど、どうか人間の世界で、明るく朗らかに育っておくれ。
この梅の花のように、慎ましいけれど、気品のある子に――――


女は、時を知ると、喉を反らせて、啼きました。


* * *




山の奥に小さな村がありました。
その村は、高い山に囲まれておりましたが、気候が良く、水に恵まれた土地でしたので、米や野菜もたくさん育ち、村人は暮らすのに何も困ることはありませんでした。
山に植わる木々は、春になると梅と桜が咲き誇り、村中が紅く染まります。
いつしかこの村は、「紅村」と呼ばれるようになりました。
紅村の住人は、安泰に暮らせるのは神様のおかげだと、毎朝毎夕、お宮の方向にお手を合わせておりました。

梅の花が咲き始めたある夜、夜半に鳥の啼き声が響きました。

お宮から声が、村長の妻が目を覚ましました。村長はお宮の護りも携わっておりますので、近くに棲んでいたのです。
鳥が夜半に啼くのは珍しくありませんが、たったひと啼きが、鋭く長く聞こえてきましたので、妻は不安になったのでございます。
村中が寝静まった夜半です。神様が村人達を叱っておいでなのではと、妻は隣で眠る村長を揺り起こしたのでございます。

蝋燭に火を灯し、ふたりはお宮へ向かいました。寒い季節ですので、吐く息が白く濁ります。
お宮の側で一番大きな梅の木が見えた時、ばささ、と羽ばたきの音が聴こえました。

「先ほど啼いた鳥ですか」
妻が蝋燭の灯りを、音の方向に向けた途端、赤ん坊の泣き声が聴こえました。
こんな夜半に。と村長と妻は思わず立ち止まりました。お互い顔を合わせ、息を呑み、耳をそばだてます。

「猫ではないのか」村長が言うと、妻がしい、と唇に人差し指を添えました。
遠くから、あー、あーと、か細い声がやはり聞こえます。
砂利を踏みしめ、やがて梅の木の全てが見えますと、根の上で、赤ん坊が泣いていたのでございます。

「こんな処に、赤ん坊が」
「……この村で身ごもっている女(おなご)は誰だったか」村長が妻に問いかけました。
「そんなことは今はいいのです、ああ、早く温めないと」
妻は赤ん坊に走り寄ると、上着を脱いで包みました。「ああ、よかった。元気に泣いています」

「あなた、この赤ん坊は神様の授かりものかもしれません。大事に育てないと罰が当たります」
村長夫婦は、子どもを熱望していたのですが、授からないまま、歳を重ねていたのでございます。
目尻に深い皺を刻んで妻は微笑みます。その端に光るのは涙でしょうか。それを見て、村長はこの赤ん坊を育てることにしたのです。

「これは…?」
家に戻り、赤ん坊をお湯に浸からせた時、村長は頭を傾けました。その赤ん坊は、可愛らしい女の子でありました。
姿は人間なのですが、背中にぽつんと、ふたつの小さな羽が生えていたのでございます。

「あら、羽のようですね。神様から授かったお子の証しです。でも私は全然かまいません。ほら、なんて可愛いお顔なんでしょう」
妻は村長に笑顔で答えました。
「そうだ。大事に育てよう。この子は可愛い女の子に育つだろう」

こうしてふたりは、この日から赤ん坊を大事に育てました。
子どもは大きくなるにつれて、黒眼がちな美しい、漆黒の髪がつやつやと光る、おとなしい女の子へと育ちました。


* * *


女の子は、「マヤ」と名付けられました。
マヤの背中の羽は硬く閉じたままで、それが育つ兆しは見えませんでした。
村長と妻は、マヤの羽のことを言う必要はないと、村人達には内緒にして過ごしました。
マヤは大きくなりましたけど、羽のことがあるのか、恥ずかしがりのおとなしい子に育ちました。

マヤは、唄うのが好きでした。唄う時のマヤは、恥ずかしがりではなくなります。
美しい唄声と、拍子に合わせて手足をひらひらとさせるマヤは、お宮に飾られている天女様を思わせました。

それでも、マヤは唄い終わると、顔を真っ赤にして、姉と慕う麗の後ろに隠れてしまうのです。
そんなマヤを、村人達は優しい眼差しで見守っておりました。

マヤの唄は、村に伝わるものだけでなく、その場で作ることも多くございました。
「明日は雨が降ります」「つばめが来週、お宮に巣を作ります」など、マヤが唄うとその通りになるのです。
嵐の来る季節は、マヤの唄のおかげで事前に備えが出来ますので、村人は皆、マヤを大切にしておりました。

五穀豊穣の祭りの日は、マヤは薄絹を幾重にも羽織り、お宮にある境内に作られた小さな舞台で唄います。その廻りではマヤの竹馬の友らが、唄に合わせて踊るのを村人は笑顔で見るのでした。
このマヤの唄は、彼女が幼い頃、ふとしたことで始まったのでございます。

その年は、雨が続き農作物が不作でありました。自分達に至らない処があったのだと、村人はお宮に集まり、祈りを捧げる毎日でありました。
そんなある日、幼いマヤがお宮の境内の真ん中に走り寄ると、突然唄い始めたのでございます。
皆がマヤの唄に耳をそばだてていると、「川辺にある祠の中で、白蛇様が困っている」と言うではありませんか。
村人全員でその川辺へと走りました。はたして、祠の中では仏様が倒れており、白蛇が挟まっていたのです。
仏様を元の位置に戻すと、白蛇はしゅる、と何処かへ行ってしまいました。
その翌日から雨は止み、晴天が続きましたので、米や野菜の収穫が出来たのでございます。

恵まれた紅村と、不思議な力を持つ「マヤの唄」は、いつしか隣の村や、遠くの街にも届いておりました。
村長の家には、マヤをひと目見ようと旅人が参ります。そのたびに彼女は恥ずかしがり、何処かへ隠れてしまいます。
村長とその妻は、「家の娘は、恥ずかしがりだから、人前には出ないのです」「唄で明日を当てる?それは何かの間違いでございましょう」と言い、旅人にマヤを見せることはしませんでした。

マヤは両親のその言葉を、部屋を隔てて聞くたびに、「あたしは唄うことが好きなだけなのに」と、寂しい気持ちになるのでした。
寂しい、哀しい気持ちになると、マヤはお宮の境内にある、大きな梅の木の下に坐ります。
赤ん坊の頃、マヤが泣いていたあの梅の木です。
小さくか細い声で、マヤは唄います。それは遠い昔に聞いた子守歌です。
こんな自分を育ててくれ、護って下さる両親に深い感謝をして、黒い瞳を潤ませ、羽のある自分の本当の母を想い、涙を流すマヤなのでした。


* * *



マヤが十七になる二月のことでした。遠い東の方から旅人がやって来たのでございます。

村人とは全く違う、西洋の服を着た背の高い男でした。
西洋の外套を纏い、高い鼻、栗色の髪の男は、美しい立派な姿をしていました。
日本のあちこちで、西洋の文化が入って来た時代でした。山ひとつ越えた街に汽車が通ったので、西洋の服を着た人も、わずかですが見られるようになりました。

背の高い男は、畑仕事をしていた堀田と妻の美奈に、村長の家を訪ねました。
ふたりは、マヤを見に来たのだと思いました。実際ほとんどの旅人が、マヤ目当てでこの村を訪れていたのです。

「……教えてやってもいいけど、何しに来たんだい?」
堀田は男へ、つっけんどんに言いました。隣の美奈は、近くで見る男の顔が美しくて、ほれぼれとしていました。

「……東から来た役人だが、村長さんにご挨拶をしたいと思ってね」
男は胸から小さな四角い紙を出しました。その紙には、墨で「速水真澄」、その隣に幾つかの漢字が書かれていました。
「だから何しに来たんだ、って聞いているんだよ。まさかマヤに逢いに来たって言うんじゃないだろうな」
堀田が声を荒げましたので、美奈は慌てて鍬を持ち替え、右手で彼の左半身を押さえました。

「……マヤ?……ああ、確かそのような名だった」
やはり、とふたりは思いました。ですが、意地悪の出来ない彼らです。いつも渋々と教えることになるのでした。
美奈がてきぱきと村長の家を教えます。その男――速水真澄という名の男は、礼を言うと颯爽と歩いて行きました。

「なんだよう、おめえ…。色男だからって現金だな」
この間みたいに、遠廻りの道順を教えてやればいいのに、と堀田が呟いていると、美奈が真面目な顔をしています。

「東のお役人様が、どうしてマヤを訪ねてくるんだろう…」美奈は男の後ろ姿をずっと見つめて言います。
マヤの噂を聞いたんだろう、と堀田が答えました。
「あの男の立派な装いからすると、中央の偉い役人に違いないよ」
「その偉い役人がどうしてマヤに逢いに来るんだ」

「嫌な予感がするよ。麗と泰子、さやかに言わなくちゃ」美奈は鍬を放ると、反対の道を走っていったのでございます。
「美奈!……やれやれ、今日は種芋を植えないとならねえのに」
堀田はため息を吐くと、村の賢者の家に走ったのでございます。



男が、美奈に教えられた道を歩いておりますと、何処からか音色が聴こえました。
どうやら、右手にそびえる森の中から聴こえて来ます。

楽器、いや、女の声……?
真澄は足を止めて、音の鳴る方へ顔を向けました。目の前の道を進めば、村長の家に着くはずです。
太陽が真上に昇るには、まだ余裕のある朝です。真澄は森を見て、次に天を仰ぐと、体を右の方面へ向けました。
そして、唄に導かれるように、森の中へと歩いて行ったのでございます。

「……凄いな」

真澄は呟いておりました。森の奥に進むにつれ、梅の木が処狭しと紅い花を揺らしていたからでございます。
真澄の住む土地にも梅の木はたくさんありますが、これだけ続くのを見たことがありませんでした。
梅の香に、胸の奥まで紅く染まりそうです。

「桃源郷に迷い込んだかもしれん」
圧倒される美しさに、真澄は少しだけ恐ろしくなりました。いつの間にか唄は途切れており、彼は引き返そうと思いました。
すると、再びが音色が届きました。先刻よりも、大きく、近くに聞こえます。

「……マヤという名の娘か?」
真澄はいつの間にか速足でした。必死に音の主へと急いだのです。
その時、大きな風が吹きました。ざああ、と梅の木が一斉にしなり、花びらが渦を巻いて舞いました。
真澄は咄嗟に眼を閉じました。


「……どなた?」

女の声が、真澄の頭に、響きました。思わず瞼を、開けました。



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