『紅い梅の木と白鳥』 ::: 二 :::
by 白菜




ましろな鳥が、紅い花吹雪の中心に坐っておりました。
白い大きな羽を拡げて、真澄を見つめております。

真澄は慌てて強い瞬きを致しました。二度でしょうか、ぱちぱちと瞼を開け閉じすると、今度は黒い鳥が居たのでございます。

「……!!」
真澄は大きく息を吸いました。そしてもう一度、瞼をきつく閉じて、思い切り開けたのでございます。



大きな黒眼と、豊かな黒髪の娘が、梅の木の下に坐っておりました。
丸い眼が、瞬きもしないで、じっと真澄を見つめています。

「……あなたは……異国のお人?」

マヤは真澄に問いかけましたが、彼は返事をせず、いきなり笑い出したのでございます。
真澄は、人間の娘を鳥と見間違えるとは、なんて滑稽だろうと自分に笑ったのですが、マヤに伝わるはずはございません。
ははは、と笑い出した真澄を、マヤは眼を見開いたまま、きょとんと眺めておりました。

「何がおかしいのかしら…。あたし、妙なことでも言ったのかしら」

彼の笑いが突然でしたので、マヤは不安な面持ちとなりました。
それでもまだ真澄は笑っています。不快な気分になったマヤは、立ち上がって真澄に向かって歩いておりました。

「あ、あたし、そんなにおかしなことを言いました?」
マヤは、頬を思いきり膨らませています。それを見て、ようやく真澄は口を開いたのでございます。

「……すまない。ああ、鳥かと思ったら、今度は蛙だ…君の頬、蛙の腹みたいに膨らんでいる」
「か……!失礼ね!なんて人!!」
マヤは更に、頬をはち切れんばかりに膨らませます。
それを見て「すまない」と言いつつ、また真澄は笑うのでした。

マヤは、この男からすぐに立ち去ることも出来るのに、足を動かすことはしませんでした。
背の高い、整った顔の男が、体を大いに反らせて笑っている姿に、見とれていたのでございます。
それに、恥ずかしがりの自分が、初めて逢う男に頬を膨らませていることも、不思議でなりませんでした。
しかも笑い続ける男に対して、坊やみたいだわと、優しい気持ちを抱いていたのです。

「本当にすまなかった。村長さんへ挨拶に来たんだが、唄が聴こえたものだから」
真澄は笑いがおさまると、マヤに言いました。

「唄……」
マヤは思わず唇に指を当てました。
確かにあたしは唄っていた。でも、下の道に聞こえるほど、大きな声で唄っていたわけではないのに。
マヤが俯いて思案をしています。これで真澄は、この娘がマヤだという勘が当たったのだと知りました。

「……美しい音色だった。唄に導かれてこちらを登った時、桃源郷に辿りついたのではと感じた」
お宮をぐるりと囲む梅の木を見やり、真澄は呟くように言いました。

「桃源郷?」
初めて聞く言葉に、マヤは首を傾げます。

「ああ、清国の話だが、漁師が川に流され、桃の花の咲き誇る先を抜けると、美しい豊かな村に辿りついたんだ」
「その村を桃源郷と言ってね。桃の花ではないが、同じ紅色の梅に囲まれた時、そう思ったんだ」

すらすらと説明を始める真澄を、マヤは眼を丸くして見つめています。
「……あなたはとても、物知りなのね」
マヤは心底から感心をして、笑顔で言いました。恥ずかしがりの自分が、初めて逢う男と会話をしている、という現(うつつ)に驚きながらも、心地良い気分になっていたのでございます。
自分へ尊敬の眼差しを向けるマヤを見て、真澄は悪い事をした子どもみたいになりました。お腹の底がむずむずと蠢きます。

真澄は日本の中央で役人をしています。知らないことなどほとんどありません。尊敬の念で見られることが日常でした。
普段の真澄はたくさんの人を遣い、命令する立場ですので、マヤが自分を見る目は彼らと同じのはずです。ですのに今に限っては、マヤの黒い眼で見つめられると、何故だか居心地が悪くなるのでした。

「今、お空が教えて下さいました」
マヤが右手をひらり、と天に伸ばしました。そのまますっと背を伸ばします。美しいしなやかな動きに、真澄の息が止まります。

「明日のお空は湿ります」
しゃらん、と鈴の音が遠くから聴こえた気がしました。
マヤが、言葉に音を重ねて、唄っております。

「これが、例の唄か?」真澄は瞬きを忘れ、マヤの姿を追いました。

「雪が降るやもしれません。ですが、お天道様は、すぐ参りますゆえ」
マヤがくるりと体を廻すと、梅の花がさあっと舞いました。
そしてゆらゆらと腕を動かすと、着物の袖が、鳥の羽を感じさせました。
いえ、真澄の眼には、マヤの背中に、大きく拡げた白い羽が、はっきりと映ったのでございます。

――― 白鳥、だ。

唄いながら舞う娘は、やがて境内の横にある、小さな舞台の上におりました。
真澄は咄嗟に彼女の元へ走っておりました。
飛んで消えてしまう。何故だか、そんな気持ちになったのです。


「……!!」
砂利が真澄の足裏を捕まえておりました。空と地面の位置が、逆さになりました。

「大丈夫ですか?」
真澄は、砂利の上に寝そべっていたのでございます。砂に足をとられ、真澄は転んで地面の上に寝そべっておりました。
恥ずかしさよりも、自分の顔を覗き込むマヤを見て、真澄は「消えてしまわなかった」と安堵したのです。

「こんなに外套が汚れてしまって。ああ、立派な布に傷がついて…」
一所懸命、真澄の洋服に付く砂を払います。
「あたしがいきなり唄ったのがいけないんだわ。あなた、驚いたでしょう?」
顔を真っ赤にして、それでも砂を払う動きは止めません。
真澄は、マヤの掌を自分の大きな手で、包みました。

「君が何処かへ飛んで行ってしまうかと思った。……ありがとう、マヤ」
男にいきなり手を包まれて、マヤの心臓が激しく鳴りました。
そして、自分の名前を言う真澄に驚きましたが、彼の笑顔をずっと見ていたい、と思ったのでございます。


* * *


「父さん、母さん、お客様です」

お宮から帰ったマヤが、背の高い西洋の服を着た男と共に現れたので、村長と妻は大変驚いたのでございます。
客人の背の高さと整った顔つきに、妻はしばらく言葉を忘れて、じっと彼を見つめてしまいました。
その間にマヤは、二階にある自分の部屋へ行きました。本当は、先刻出逢ったばかりの、男の側に居たかったのですけれど。

真澄は、美奈と堀田にも見せた、小さな紙を村長夫婦の前に出し、東で役人をしていると挨拶を致しました。
村長は、世間のことをよく知っておりますので、真澄がこの国の中央の役人である、というのがひと目で解りました。

マヤを見に来たのだ。どうお断りをしよう。お役人様に逆らったらどうなってしまうのか。

不安な面持ちが村長の顔に出ています。
ところが真澄は、「山の向こうに汽車が通ったので、近隣の村の様子を見に来ただけだ」と言うではありませんか。
妻も、村長と同じ気持ちでありましたので、真澄の言葉を聞くと、ふたりは顔を見合わせてしまったのでございます。
しばらくこの村に滞在する。そう言うと、真澄は村長の家を出ました。

マヤを連れて帰ること―――が、真澄の真の目的でした。他の役人からマヤの噂を聞き、企みを思いついたのです。
「マヤの唄」を、政(まつりごと)に利用する算段でした。この村に着く前までは、大金をちらつかせ、単刀直入に村長に言うつもりでした。
ですが既にマヤと出逢ったので、画策の内容を変えることにしたのです。無理やりにではなく、マヤが笑顔で、自分と共に東に帰ることが出来ればと。

真澄はぶるん、と大きく頭を振りました。

俺は一体、何を考えているのだ。笑顔で共に帰るなどと。

真澄は己に驚いておりました。このような甘美な感情は、とうの昔に捨ててしまったはずです。
俺は、「マヤの持つ力」が欲しいのであって、マヤそのものが欲しい訳ではない。
ぎり、と眉を潜めました。そして、目玉だけを動かして前方を睨みました。これが普段の真澄の姿でした。

――ちっぽけな娘ではないか。都会の華やかさを語れば、夢を見て自分から「この村を出たい」と言うに違いない――
のどかな風景を斬るが如く、真澄は冷ややかな眼をして、辺りをぎろりと睨んだのでございます。


「……お役人様!」
マヤが、真澄を後ろを走っておりました。

「お役人様、忘れ物です」

はあはあと息を弾ませ真澄に辿りつくマヤの手には、彼の名前の入った小さな紙が握りしめられていました。
「あなたのお名前が入っています。大切なものをお忘れになってはいけないわ」
にっこりとマヤは笑い、両手で名刺を差し出します。
マヤは初めて名刺を見たのでしょう。真澄の名が入っているので、大切な紙だと思い彼を追いかけたのでございます。
真澄は驚いた顔が元に戻りませんでした。

「……君って子は……」
「あ……」

マヤの両手を、自分のふたつの大きな掌で包みました。真澄は、マヤを愛おしく思ったのでございます。
そしてマヤも、この人の掌は、とても優しくて温かい、と思ったのでございます。



「お役人様の街では、皆、西洋の服を着ているの?」
「皆ではないな。中央だけで、廻りはこの村と同じ着物姿だよ」
真澄はマヤの着物をちらりと見ました。縞模様の着物には継ぎはぎがあり、長くそれを着ているのが分かりました。

「この村の案内を」と真澄がマヤに頼みましたので、ふたりは並んで歩いているのでございました。
このまま離れたくないと思った真澄が、咄嗟に出した言葉でしたが、マヤも同じ気持ちでしたので、快く引き受けたのでございます。

「へえ…。この村で西洋の服を着ている人なんて……あ、桜小路の優さんが、西洋の服を着始めたわ」
「ほう」
「ええ。優さんが初めて皆に見せてくれた時、文明開化の音がすらあ、って誰かが言い始めて、いつの間にか酒盛りが始まったの」
その時の様子を思い出したのでしょうか、マヤはくすくすと笑います。

「でね、優さんのシャツを、麗に着て見せて、と頼んだら、優さんよりも似合っていて!」
「あ、麗というのは、あたしの姉さんです。本物の姉妹ではないけれど」
こちらで、麗という人物が女性で、優さんは男性なのだと、真澄に分かりました。

「……女性が男性のシャツを?」
「はい。麗はとても背が高くて、お役人様ほどではないけれど、男性のシャツがとても似合ってたの」
「それは是非、拝見したいな」
背の高い真澄は思いきり顔を下に向けて、背の低いマヤは思いきり喉を伸ばし、お互い顔中に笑顔の花を咲かせておりました。

「お役人様はお金持ちだから、牛鍋ばかり召し上がっているんでしょう?」
「……嫌と言うほど食べてるよ。地方から来る役人は決まって牛鍋に誘うから、俺はすっかり飽きてしまった」
「まあ!贅沢だわ」
「君も三日と開けずに牛鍋を頂いてごらん?牛、という文字を見るだけで胃が痛む」

あははは、とマヤと真澄の笑い声が幾度も響きます。
女性の扱いは上手な方だと真澄は自負しております。賛美と世辞で女性を喜ばすなど朝飯前の真澄ですが、マヤとの会話は素直な感情のまま楽しんでおりました。
そしてマヤも、恥ずかしがりの自分なのに、どうしてこの人には臆することなくお話が出来るのかしら、と不思議な気持ちでおりました。

ふたりは、村の案内などすっかり忘れて雑談を楽しんでおりました。

広大な田畑を抜けると、商店が軒を連ねる、村唯一の賑やかな場所がございます。
いつもなら、マヤを見かけると声を掛ける村人も、今日に限っては、長身の男とマヤがおしゃべりしているのを、誰もがぽかんと口を開けて見ておりました。
真澄は「あの恥ずかしがりのマヤが…」という、村人の呟きを逃しませんでした。
この村でマヤは愛されていると真澄は知りました。もしかしたら連れ出すのは困難かもしれないと、少し不安を抱いたのです。

「君も西洋の服を着てみたいと思わないか?」
真澄がマヤに問いました。
「西洋の服?」
「君も見たことがあるだろう?貴婦人のドレスや、女学生の袴姿……」
麗に借りた少女雑誌をマヤは思い出しました。その中に、腰をきゅっと締めて、ふんわりと広がるスカート姿の娘がおりました。

「ええ。素敵だと思うわ……」
マヤの眼が、きらりと輝くのを真澄は見逃しませんでした。
都会への憧れを抱かせるための術なのですが、マヤにドレスを着せたいと真澄は心から思ったのです。

「でも……」
マヤは、背中の羽を常に気にしていました。
着物だと背中のでっぱりは見えません。ですが、背中にぴったりと布が貼りつく西洋のドレスは、マヤの羽がひと目で分かってしまいます。
「あたしは、このままでいいんです」
寂しそうにマヤは言いました。真澄は、彼女の寂しそうな顔の意味が分かりませんでした。

「お役人様、あの宿にお泊りになるんでしょう?」
いつの間にか、宿の近くを歩いておりました。お天道様が、真上に昇っています。
「あたし、お家に戻りますね。母さんの手伝いをしないと」
マヤが歩くのを止めたので、真澄との距離が少しだけ、離れました。

「では、…あっ」
マヤの心臓が、どきんと音をたてました。同時に頬の熱が昇りました。
それは、くるりと踵を返すマヤの手首を、真澄が掴んでいたからです。

「また君に逢いたい。何時(いつ)であれば逢える?」

真剣な眼差しでした。マヤは呼吸が止まりそうでした。実はマヤも真澄にまた逢いたい、と思っておりました。

「……朝と夕に、お宮へお参りをしています」

「……分かった」

では、速水さん。
マヤは真澄の名前を告げてあちらへと走って行きました。それは真澄が、自分の名を呼んでほしいと告げたからでした。
こんなことは初めてだ。マヤの後ろ姿をずっと見つめながら、真澄はこれまでの女達とのやりとりを、思い出していたのでございます。

このふたりの姿を、宿の窓から見ている男がいるなど、真澄は全く気づいておりませんでした。



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