『薔薇の吐息は甘く微笑む』 ::: 1 :::
by kurechiyo





ずっと、焦がれて止まないものがある。
たった一輪の薔薇でいい。
もう一度、この手にすることが出来たなら――…。


微笑みを絶やさずに生きてきたのは、逆境に挫けないための自分への戒めだ。
とうに、なじられることにも慣れてしまった。すべて貧しさゆえの、遣る瀬なさの捌け口に過ぎないのだと、これまでひたすらに甘んじて、それに堪え忍んで来たのだ。
それに、姉たちが心から悪い人ではない事を彼女は知っている。…いや、そう思い込んで、『現実逃避』という名の詰まらぬ一人芝居を延々と演じて来たのだ。
演じるのは元来、得意だった。天性の才能によるものだった。それゆえ彼女は商人の娘ながらも、駆け出しの女優として華やかな道を歩もうとしていた。しかしその傍らで、末娘だけに許された特別な才能と自由に、家業の手伝い以外を許されなかった姉たちの嫉妬と不満は悪意となって募っていく一方だった。
また、その矢先に家業が困窮して、姉たちの変わらぬ放蕩ぶりの尻拭いと家事を一手に引き受けねばならなくなった現状は、無惨にも彼女を舞台から遠ざけた。
演じたい欲求は日に日に募る。だが何の代償さえ持てずにいる。彼女の揺るぎない微笑みの仮面にも、いよいよ亀裂が生じ、そこから限界の悲鳴が聞こえてきそうだった。
だからであろうか、これから商用で遠方に出掛ける父が、留守を任される三人の愛娘たちにそれぞれ土産の希望を尋いたとき、末娘のマヤは胸の裡に綴る物語からとうとう目を背けて、秘めたる渇望が堰を切って零れ落ちるのを止められないでいた。
「あたしは薔薇が欲しい…!たった一輪でいいの。お願い、お父様」
途端にふたりの姉が笑い出した。
「お前はまた随分とささやかなことを言って、お父様の寵愛を得ようとしたものね」
「一輪の薔薇ですって?それは絹の道渡りの異国染めの織物や、虹色に輝く宝石をねだった私たちに対する当てつけ?」
「違います!あたしは真心から、薔薇が欲しいのです。他に思うことはありません」
いつものように息のあった絶妙な間で、たちまち彼女の言動に難癖がつけられる。容赦なく振り下ろされる姉たちの心ない言葉の刃に、マヤの心は膾(なます)のように傷つき血が噴き出していく。しかし父親 はそれを咎めることもなく、ただ溺愛する末娘の珍しくはっきりとした要求に目を細めるばかりだった。
「わかった、薔薇だね。きっと、お前の望み通りにしよう。だから留守の間、変わらず健やかでいておくれ」
そして、父親は旅立って行った。
朝まだき、東の空がようやく白みはじめて、見送る父の背を仄かに浮かび上がらせていた。
マヤは何故か不吉な影を感じて、昇り来る太陽に愛する父親の帰途の無事を、ただただ祈らずにはいられなかったのである……。


嵐であった。
荒れ狂う風雨と渾沌とした闇に紛れて、夜の森は行く先さえ定かではない。
既に荷物も財産も何処かへ飛ばされた。有るのは最早、命だけである。
ふと、けぶる暗がりの向こうに、ぼんやりとした灯火(ともしび)を見つけた。男は藁にも縋る思いで、這うようにそれだけを目指した。
辿り着いた先には、蔦の絡まる古びた館があった。錆びついた鉄の門は、朽ちた錠前の所為で開け広げになっており、容易く迷い人の侵入を赦した。
男は訝しく恐れ慄きながらも、そのまま鍵の掛かっていない玄関扉を押し開けて、邸内へと濡れそぼった身体を潜めた。
すると寂れた外観とは異なり、邸内はまさしく貴人の住まうが如く煌びやかな栄華を極めていた。男は思わず息を呑む。掃除も手入れも行き届いた様子を見遣って、うらぶれた没落貴族の隠れ家だと思い込んでいた考えを改めた。「どなたかいらっしゃいませんか」
しかし、訪いを告げても応えはなかった。
緋色の絨毯が敷かれた長い廊下には明るい火を灯した燭台が点々と置かれ、男を歓迎するかのように真っ直ぐ大広間へと導いていた。
そこで男はまたしても驚嘆する。
豪奢なシャンデリアが高い天井の中央から煌々と見下ろし、広間の端と端を繋ぐほどの長テーブルの上には、たった今、晩餐会でも開かれていたかのような贅沢な食事が所狭しと並んでいたのである。暖炉にくべられた薪がパチパチと音を立てて爆ぜながら、躍動的な火の舞で男に温もりと安寧を与えた。
男はそれらを前にしながらも、全身ずぶ濡れの身体はすっかり疲弊し切っており、すっかり緊張の糸が切れたのか、その場に倒れこむように眠りに落ちていった。

目を覚ますと、朝を知らせる静粛な光に包まれていた。嵐は去ったようだった。
夕べからの摩訶不思議に困惑しながら辺りに目を配ると、昨晩の夢のような食卓は品を変えられて朝食の用意が整えられていた。
そして今度こそ、男は気配すらない館の主に感謝を捧げつつ、皿に手をつけた。
食後、礼を伝えられぬもどかしさに、つい住人を探して館の中を彷徨うが、どこを覗いても静寂と寂寥しか見つからない。
最後にサンルームから庭に抜けると、そこは薔薇の花園が広がっていた。
まるで夕べの嵐などなかったかのような完璧な立ち姿で、薔薇たちは季節を無視して咲き乱れている。その千紫万紅の宴に誘われて、男はふらふらと魅入られたように近づくと、中でも取り分け珍らかな紫の薔薇を、棘も気にせず一輪手折った。
「よかった…!何もかも失ってしまったが、これでせめてあの子との約束だけでも叶えてやれる…!」
取り憑かれたように紫の薔薇を見つめて、男がほっと胸を撫で下ろしたのと同時だった。たちまち一陣の風が吹き荒れて、むせ返るような薔薇の香に包まれたかと思うと、いつの間にか漆黒の外套を纏った長身の青年が薔薇の花園の中に佇んでいた。
直立して微動だにせず、見るからに身なりの良い姿は滲み出る気品に溢れていたが、その面差しは氷のように冷徹を極め、男を見下ろす眼差しは人間らしい一切の光を宿していなかった。
「呆れたものだな。嵐の夜に情けをかけてもてなしてやったというのに、仇なすようなその仕打ちは何事だ。最早、生きて帰れると思うな」
淡々とした物言いは、男に絶望的な恐怖と死の予感を与えた。へなへなと膝をつくと、紫の薔薇を握りしめて哀願する。
「お、お許し下さい!娘との約束に薔薇をたった一輪いただくことが、それほどの罪でしょうか」
「黙れ。この薔薇は、貴様如きの卑しい手が触れてよいものではない。しかし、娘と言ったな。宜しい。もし、貴様の命が惜しいと言うなら、代わりに娘を差し出すがいい」
「な、なんと無体な…!そうか、聞いたことがあるぞ。狼さえ寄りつかない森の暗き奥地に、冷酷無比なる野獣の棲家があると…!子供騙しの噂だと思っていたが、よもや真実だったとは!貴男は確かに血も涙もない、野獣のような御方だ!」
「死に行く者の戯言など何とも思わんな。さあ、如何様にするか聞かせて貰おうか」
青年は鼻で嗤うと、男に決断を迫った。誰しもが見惚れるような整った顔立ちであるのに、その裡に巣喰う悪魔の心根に虫唾が走る思いである。
男は娘の命を差し出すつもりなど毛頭なかった。しかしこのままマヤに会わずして命を散らすなど、どうして出来ようか。せめて一目……。
「…分かりました。この命で以って償いましょう…。ただし最期の暇乞いのため、今一度、娘に会いに戻ることをお許し下さい」
「よかろう、だが必ず戻れ。約束を違えたとなれば、おれは何処までも貴様を追って、きっと殺してやるからな」と、青年は歌うように呪いの言葉を吐いた。


それからどのように自宅に戻って来たのかは判然としない。
出迎えた娘たちは憔悴し切った父親の怯えた様子を見て、何事か抜き差しならない事態が起きたことを悟った。
「お父様、お帰りなさい。ねえ、どうなさったの…?」
マヤが心配そうに覗き込むと、父親はとうとう落涙してこれまでの顛末を話した。
すべてが詳(つまび)らかになったとき、マヤの心は既に決まっていた。
「お父様、大丈夫よ。お心を煩わせることは、もうこれ以上ありません。その男の元へはあたしが参ります。真摯にお詫びをすれば、きっと分かっていただけるわ」
その言葉に、またしても意地の悪い姉たちがすかさず反応する。自分たちへの土産が嵐にさらわれて失せたと知って、八つ当たりとばかりに、妹の浅慮な物言いを競って声高に非難しはじめた。
「何を言い出すのかと思ったら…!そんな綺麗事が通用するとでも本当に思っているの?そんな甘い考えは捨てて、いっそ身も心も尽くして一生を捧げるつもりでお行きなさいな!」
「そうよ、元はあんたが薔薇なんかをねだったから!お父様の代わりに命を奪われても当然の報いだわ。謝罪より、むしろ私たちに類が及ばないように話をつけておいて頂戴ね」
微笑みを貼りつかせたまま、唇を噛んでマヤは耐える。救いを求めるように父親を仰ぎ見ても、彼はおこりに罹ったように、ただ打ち震えているだけだった。
あっさりと『身代わり』を志願したマヤの言葉に、彼の命を量る天秤がみるみる傾いでいくのが見えるようだった。彼女は漠然と失望を感じた。
マヤはそっと瞳を伏せた。強く心に覚悟を刻む。そして、静かに口を開いた。
「お姉様方のご懸念には及びません。あたしは一切の罪をこの身に背負って参ります。あとはどれだけ誠意が通じるか、神様のご加護をいただくばかりです」
「待ちなさい、マヤ…!お前を無下に死に至らしめる訳にはいかん!あんな野獣のような男が、小娘の命乞いなど聞く耳を持つものか…!」
「お父様、何事もする前から諦めてしまうという手立てはないわ。大丈夫、安心なさって!あたしアドリブは得意なの、何とか切り抜けて見せるわ」
そう言ってマヤは悪戯っぽく笑った。それ以上の意見など聞く耳を持たないといった、残酷なあどけなさで。
口を利くものは、最早誰もいなかった。



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