『薔薇の吐息は甘く微笑む』 ::: 2 :::
by kurechiyo





「ごめんください…」
父親に伴われて、マヤは森の奥の野獣の館を訪ねた。相変わらず無人の様相を呈していたが、邸内に一歩足を踏み入れると、何処からともなく恐ろしい声が響いた。
「娘だけ残して、父親は立ち去れ」
野獣からはこちらの様子が見通しなのだと知って、どうにかふたりで逃げる隙を窺っていた父は深く項垂れるとマヤに詫びた。
「マヤ、お前には申し訳ないことをしたと思っている。きっと、きっと無事に戻ると約束しておくれ」
「どうか心配しないで、お父様。では、ご機嫌よう」
マヤはわざと朗らかに別れを告げた。まるでこれから散歩にでも出掛けるような気安さが、更なる悲哀を誘うのだった。

たったひとりきりになったマヤは、辺りを見回しながら奥へと進んだ。先ほど確かに声がした筈なのに、野獣の姿はおろか気配すらまったく感じることはない。
廊下の先を見ると細く開かれたドアの隙間から明かりが伸びていて、マヤを誘(いざな)うように美味しそうな匂いが漂ってきた。
果たしてドアを大きく開けると、そこは豪華な夕食の席が設けられた大広間であった。テーブルの中央には真紅の薔薇が零れんばかりに生けられており、色彩豊かな献立は如何にも女性受けしそうなものばかりだった。
――あたしを歓迎してくれている…?
単にあっさり殺されるだけではなさそうだと思うと、マヤは安堵して開き直った。このような趣向を凝らした料理は久しぶりであったし、運命の輪が回り始めたのならば、いっそ旅路の間は大いに楽しんでやろうと言うものだ。
マヤは舌鼓を打ちながら遠慮なく食事をすべて平らげ、「美味しかった〜、ご馳走様でした!」と、満足気に感嘆の声をあげた。
空腹が満たされると、途端に眠気に襲われる。自分でも随分と太い神経だと苦笑を漏らしながら、マヤは寝室を探すことにした。


大広間を後にすると、廊下の燭台をひとつ拝借して閉ざされた部屋を端から覗いて行く。どの部屋も趣味のいい調度品や、一目で価値ある芸術品だと思われる絵画や彫刻がさり気なく飾られており、この館に住む者の身分と人柄が偲ばれた。
――野獣だなんて…、お父様の言っていたことは本当なのかしら?
やがて二階の東側に位置する部屋のドアを手元の灯りが照らすと、 マヤ ≠ニ名入りのプレートが浮かび上がった。
「あ、ここがあたしの部屋なのね」
続く用意周到ぶりに些かの疑問と恐怖がもたげるが、今更驚くことも疲労を蓄積させるだけに思えてならない。マヤは何もかも受け容れる覚悟を決めた。
部屋に入ると、天蓋付きの大きなベッドが目に飛び込んで来て、マヤは思わず瞳を輝かせた。直ぐ様うつ伏せに倒れ込む。眠気も強がりも、とうに限界を超えていた。
「はぁ…、取り敢えず今夜のところは生かしておいて貰えるようね」
ふかふかの枕に顔を埋めて、ようやく緊張を解いて四肢を伸ばした。
だが明日の我が身を思うと生来の楽天家振りもなりを潜め、呑気に眠れそうにもない。夜が明ければ、いよいよ命の潰える運命の日なのかと思うと、石を抱いたように重苦しい気分にもなるのだった。
大袈裟なほど深い溜め息を吐き出すと、マヤは物憂げに起き上がって、自分に宛がわれた部屋の中を見渡した。一夜限りの仮宿に過ぎぬとは言え、ここが彼女の終の棲家となるのだから、せめて目に焼き付けておこうと思ったのだ。
凝った刺繍入りの重厚なカーテン、繊細な装飾を施された額縁を持つ大きな楕円の姿見。ベッドからソファや何から何まで、全体がロココ調で統一され優美な雰囲気を醸し出していた。大きなフランス窓からは、中天にかかる細い月がぼんやりとした影を落としていた。
最期くらいはこんな贅沢も許されるだろうと、その豪華さに満足の笑みを浮かべる。
不意に甘い香りに誘われて匂いの元を辿ると、窓辺の花台の上で仄かな輝きを纏う薔薇に気がついた。引き寄せられるようにそっとベッドを降りると、マヤは月明かりに顔を寄せて、やっとその色が紫だったことを知る。
それは彼女にとって、忘れ得ぬ思い出の色だった。

以前一度だけ立った舞台で、誰からかも判らぬ花束を受けとったことがある。
初舞台の緊張と興奮から醒めやらぬまま、夢見心地のマヤが気づいたときには、忽然と独り歩きでもしてきたかのように、紫の薔薇の花束が彼女の傍に寄り添っていたのである。それはさながら贈り主の正体そのままに、彼女に不思議な印象を強くもたらした。
その時の感慨をまさに甦らせながら、マヤは紫の薔薇を一輪抜き取って唇に寄せる。
――あのときの薔薇の贈り主は、一体どんな方だったのかしら…。結局お礼も伝えられないまま、あたしは舞台から遠退いてしまったけれど…。
今となってはどうにもならない思いに、寂しげに視線を彷徨わせると、並びのキャビネットの上に重ねられた数冊の本に目が留まった。無造作に集められたにしてはどれも有名な戯曲ばかりで、かつて彼女が初舞台を務めた演目をその中に見つけて、マヤは思わず歓喜の声を上げた。
「わあっ!シェイクスピアに『椿姫』もあるわ。それにこれ、『若草物語』…」
マヤは懐かしさにそれを手にとって、ページをパラパラと捲った。いくつかの台詞をかい摘んで口にすると、ありありと在りし日の情景や喝采までもが脳裏を過る。
――ああ…!お芝居って、やっぱり素敵!いつかまた演じられる日が来るといいのに…。
憧憬を胸に熱く募らせても、次の瞬間には、自身の未来はこの館の主に委ねられていることを思い出して、マヤは今ひとたび口惜しさを唇に噛み締めた。
――あたしが、お父様に薔薇をねだったばっかりに…。
二度と手に入らないものと一度は諦めたからこそ、思い出として大切に胸に閉まって置けばよかったのだ。そうすれば紫の薔薇は永遠に枯れないまま、マヤの胸に美しく咲き誇っていられただろう。まさかたった一輪の薔薇の為に家族と別れ、野獣に命を捧げねばならない日が来ようとは、それこそ誰も思いも寄らない悪夢そのものであった。
ふと目の端に人影が映って視線を走らせると、同じ背丈程の大きな楕円の鏡がマヤの姿を映していた。
鏡の中の自分に向かい、乱れた髪を撫でつけながら微笑んでみる。いつも通りの笑顔が作られたことに安堵して、マヤの口元から小さな弱音が零れた。
「あたしは、ひとりきりなんだわ。家族とはもう、きっと会うこともない…」
途端に、ぐにゃりと鏡面が歪んだ気がした。
驚いて一歩後ずさると、鏡の中に映るはずの自分の姿がみるみる溶けていく。すっかり何の跡形もなく消え去ると同時に、そこに浮かび上がってきたのは、先刻、今生の別れを告げたばかりの家族の悲しみの様子だった。
「お父様…!お姉様…!」
不思議なことに、この楕円の鏡は遠眼鏡で覗いたように彼方の情景を映し出せるようだ。マヤは鏡に取り縋って食い入るように彼らを見つめた。
大切な娘を恐ろしい野獣の元へやすやすと残してきてしまったと、己の不甲斐なさを嘆く父親をふたりの姉が形ばかりに慰めている。大袈裟にマヤの身の上を哀れみ、空々しく涙を流してみせる。心裡では口減らしが出来たとでも思って清々しているのであろう。それでも家族の元気そうな姿にマヤは胸を撫で下ろして、我が亡き後も父親が寂しい人生を送らずに済むと、唯一の気がかりを払拭した。
「不思議な鏡…。これも野獣の成せる魔力の仕業なのかしら?でも、ちっとも恐ろしいなんて思えないわ。だって、幻でも家族に今一目会えたもの。本当は親切で優しい方なのかも知れない…」
それが例え浅はかな思い込みだったとしても、マヤは手厚いもてなしや丁寧な配慮に感謝の念さえ抱いていた。不安もいつしか希望に摩り替わり、恐ろしいだけの想像の中にも、僅かながらに奇跡を讃える未来が燦然と輝きを取り戻している。
「明日、きちんとあたしからお詫びしよう…。きっと心が伝われば、怒りを解いてお許しくださるに違いないわ!」
自らを鼓舞するように、マヤは紫の薔薇を力強く握りしめて祈りを込めた。
そして、また弱気に苛まれないうちに、と速やかにベッドに潜り込んで眠りについた。月明かりとは別に、彼女を見つめる暗い気配の存在があることなど、まったく気がつかないままに。


翌朝、階下へ降りていくと館は静まり返り、庭を訪れる鳥たちのさえずりだけが軽やかな宮廷音楽のようにこだましていた。
広間にはひとり分の朝食が用意されていた。まだ仄かに湯気が漂っている。
何処から見ても、のどかな朝の風景だった。
マヤは一夜を過ぎて、やはりここがどうしても恐怖に怯えるだけの、この世の果てには思えなかった。外に目を向ければ、雲間から射し込む陽が幾条もの透ける光の帯を作り、庭一面に咲き乱れる薔薇や鮮やかな芝を幻想的に演出している。瞳を閉じれば耳に澄む野鳥のさえずり、風の囁き…。
ここにはマヤが物語の中にしかないと思っていたものが、すべて完璧に揃っている。だが、惜しむらくは登場人物がマヤと野獣だけ、ということだ。
それも、寝ぐずる子供の枕元で読み聞かせる健全な童話のように、ハッピーエンドを迎えるならまだよかった。何しろまかり間違えれば、恐怖や残酷を主題とした物語のように、終幕には無惨な自分の亡骸(なきがら)が横たわるのかも知れないのだから。
心の奥底に沈めたはずの不安が急激に押し寄せてきて、マヤは一瞬、瞼の裏が昏くなる。
今更どう足掻いても、ここが野獣の館で、自分はその生贄だという事実は拭い去れないのだと、美しい景色とは対照的などんよりとした己の未来を恨んだ。
真白いテーブルクロスに手をついて、眩暈にも似た雑念を振り払うと、その拍子に出来た歪んだ皺を震える指先で丁寧に伸ばした。
――大丈夫。きっと、大丈夫よ。笑っていれば、どんなことにもきっと立ち向かえられる。今までだって、そうやって生きてきたんだから…。
マヤは無理矢理に微笑みを口元に乗せると、席について、ひとりきりの食事を静かに始めた。



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