1.


最寄り駅の地下鉄の改札を抜け、地上に出ると、朝から降り続いていた雨は止んでいた。雨上がりの湿った風が脇を通り抜けると、マヤは半袖の腕に寒さを感じて小さく身震いした。
先週から晴れ間のない、じめじめとした天気が続いていた。梅雨の季節なのだから仕方がないとはいえ、明日から久しぶりの稽古休みに入るというのに、気分は晴れなかった。
マヤは愛用の苺模様の折りたたみ傘を巻き直して、カバンにしまうと、曇天を振り仰いでため息をついた。

昨年のことである。
試演を終え、正式に「紅天女」の後継者に選ばれたマヤは、息つく暇もなく、新春の本公演に向けて新構成されたメンバーと共に黒沼龍三の指導の下、稽古に入った。
ーー主演・北島マヤ
ポスターや新聞、雑誌の見出しに踊る自分の名前を指でなぞりながら、ようやく我が身のことだと実感したのは、本公演も間近のことだった。
紅姫となり阿古夜となり、日常との境目が判らなくなる程、マヤは舞台に没頭していた。異例の超ロングラン公演を経て、盛況のまま千秋楽を迎えても、次々に新しい演出プランを膨らませる黒沼の熱望と、世間からの止まない期待により、再演に向けての稽古の日々がまた始まったのだった。

カバンの中の携帯電話が小さく震えた。新着メールのライトを確認すると、駅前の雑踏から身を離し、フォルダを開いた。
『お疲れさん。今日は稽古が長引きそうなんだ。
多分帰りは8時過ぎになると思うから、夕食は先に適当に食べてておくれよ』
差出人は青木麗からだった。二人は相変わらず白百合荘で同居生活を続けている。アテネ座での公演が成功した劇団つきかげと一角獣は、あれから順調に名のある劇場での公演を重ね、その名を広く知られるようになっていた。
多忙にも関わらず、麗はほとんどの食事の世話やマヤの面倒を、愚痴をこぼしつつも何くれとなくみてくれた。「紅天女」の世界に浸りきってしまっていたマヤに対しても、「もう慣れっこだよ。手のかかる天女様だね」と笑っていた。
マヤは日頃の感謝の気持ちを込めて、手早く返信を打ち込む。
『お疲れさまー。
あたしはもう終わって今帰り。夕食の支度して待ってるね (^O^)/』
送信して数秒のうちに、またメールランプが光る。
『焦げた魚はイヤだからね』
「ひどーい!麗ったら、まだ梅の谷でのこと覚えてるのね」
思わず声をあげて憤慨したが、往来だと気づいて慌てて口をつぐむ。時刻を確認すると、マヤは大股で歩き出した。
水たまりを避けながら、会社帰りのサラリーマンや広がって歩く学生たちを追い越して、表通りを商店街のスーパーへと向かう。ほんの少しの早歩きでさえ、ブラウスの薄い生地が背中に張り付き、フレアスカートの裏地が足にまとわりつく。稽古終わりにスタジオでシャワーを浴びて来たというのに、これではまったく意味を成さない。マヤは汗ばんだ額を手の甲でぬぐった。
ほどなくして目当てのスーパーに到着すると、店内は冷房が効いていたので、マヤはほっと人心地ついた。
同じように夕食の材料を買い出しに来ている人たちで、混雑し始めた店内を縫うように進みながら、マヤはなるべく特売品を選んで献立を考える。勿論、なけなしのレパートリーの範囲内で、というのは言うまでもない。
ポップに赤い太字で記された値段を目で追う。たいして悩むまでもなく、今夜のメニューはカレーライスに決定した。これなら失敗することは……恐らくないだろう。
辛党の麗には悪いが、自分の好みで甘口のルーを選んだ。
会計を済ませてスーパーを出ると、再び雨が降り出していた。傘をさすか、ささぬか迷うほどの霧雨。役者は身体が資本だ、という黒沼の教えを思い出して、マヤはカバンから傘を出し広げた。
往来を帰宅する人たちが足早に通り過ぎて行く中、マヤも自宅へと足を早めた。

スーパーのある商店街を抜けると、自宅までは一本道だ。駅前の喧騒から次第に外れ、家々が建ち並ぶ静かな住宅街の一角に白百合荘はある。
今時珍しい玄関とトイレが共同の、古い2階建てアパート。風呂など勿論無いわけだが、そう遠くない距離に銭湯もあるので、特に不便を感じることなく暮らしてきた。
往来に通行人が途切れ、音もなく雨が景色を濡らして行く。時折、どこからともなくサイレンに混じって犬の遠吠えが聞こえてくるだけの、静かな雨の夕暮れであった。
マヤは今日何度目かのため息を漏らした。一人になるとどうしても頭をもたげてくる物思いに、この頃捉われて抜け出せないでいた。
ーー会えない理由と、届かないバラ……。

あの日から、まるで表の世界から消え去ってしまったかのように、真澄はその存在をマヤの前から消してしまっていた。彼の言葉通り、しばらく会えないだろうことは予想していたが、それはせいぜい試演の舞台までだと、マヤはどこか呑気に構えていた節があった。
何しろ「紅天女」だ。マヤも真澄も目的は違えど、切望するほど追い求めていた幻の舞台ーー。
だが試演当日を迎えても、彼の姿はおろか、その不在の理由さえ明らかではなかった。そして彼女が舞台にたつ度に贈られてきていた紫のバラも、後継者に指名されてもなお、マヤの元に届くことはなかったのだ。
喜びの影で強く打ちのめされていた彼女を少なからず救ったのは、婚約者の病気治療のため延期されたという真澄の結婚式についての噂だった。だがそのことさえ、マヤに様々な憶測を与え、安心させる決定的な材料にはならなかった。
それからマヤの日々は、後にも先にも「紅天女」だけだった。
演じている間は不安も焦りも忘れていられた。ただ恋心は募るばかりで、ますます彼女の心を苛んだ。
大人になるから待ってて。
そう言ったのは、あたし。
おれを信じて待っててくれ。
そう言ったのは、速水さん。
待つことなんて、簡単だと思っていた。抱きしめあったぬくもりを、交わした約束を覚えていられれば。
でも、そうではなかった。

本公演は大都の新劇場で上演された。会場に飾られた一際豪奢な花輪とともに、興行主としてのその名が並んでいるのを見とめても、マヤは逸る気持ちを抑え、役に集中する。
真の後継者として務める初めての舞台である。失敗など出来るはずがなかった。
幕が下りたとき、普段とはまったく違う解放感が全身を包み込んだ。
今度こそようやく会える、という思いが自然と沸き起こって胸を熱くした。

この季節に咲き乱れる色とりどりの紫陽花が、家屋の庭先に、舗道の植え込みに大輪の花をこぼれんばかりにつけている。土壌の性質により、花の色が変わるというこの不思議で可憐な花を、今のマヤは見るのが少し辛い。
そこかしこに気安く存在する紫色の花は、形こそ違うが、否応なくあの花を彷彿とさせてしまう。

千秋楽を迎えても、ついに紫のバラは届くことはなかった。
愛しい人の姿を垣間見ることさえ叶わず、マヤはなす術もなく途方に暮れる。
やはり、夢だったのであろうか。バラ色の朝焼けが映し出した甘く残酷な夢。
会えない現実がゆっくりとマヤの心に昏い影を落としていくのを、演じ続けることで何とか振り切る。そうでもしなければ不安に押し潰されてしまいそうだった。
ひとたび舞台から離れて素顔の自分に戻れば、無為の時間を持て余し、恐怖すら感じた。

急に傘に降りかかる雨音が、耳を打つほどにまた強まり始めた。マヤは少し足を早める。打ちつける雨に、紫陽花たちも首を項垂れて揺れていた。見ないふりも出来ずに自分と重ね合わせて、泣きたくなる。マヤは苺の傘を少し前に傾けた。
傘を伝う雫とアスファルトを跳ねるしぶきが、マヤの足元を濡らしていく。
アパートに着いたらすぐ着替えよう。それから夕食の支度をして…。大丈夫、あたしにはやることがある。今はそのことだけを考えていればいい。
ふと、顔を上げるとアパートはもう目の前だった。ほぅ、と息を吐いてマヤは軒下へ駆け込もうとした。
そこへ見覚えのある一台の黒塗りの高級車が門前へ滑り込むように現れ、ゆっくりと停車した。


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