2.


「真澄さま、また考え事ですの?」
秘書の水城の声に、速水真澄は意識を手にした書類に戻した。
朝から降り続く雨を気にすることもなく、一日中社長室に閉じこもって書類整理に明け暮れていた彼は、どうやらまたしても思考の海に深く潜っていたようだ。
常に冷静沈着、仕事の鬼と周囲に囁かれているはずのこの男は、このところしばしば物思いに沈み、精彩を欠くことこの上なかった。それを周囲は以前にましての、昼夜を問わずの激務による疲労であろうと慮る。実際はそればかりでないことを知っている水城は、最近の彼の行状に業を煮やし、近頃ではあからさまに冷ややかで抉るような視線を投げかけてくる。
真澄はひとつ咳払いをすると、平静を装って、何とか目の前に仁王立つ秘書を部屋から追い出そうと試みる。
「すまないが、コーヒーのおかわりをくれないか」
「それでしたら、すでにそちらに置かせていただきましたわ」
表情ひとつ変えずに、冷たい視線だけが机上のコーヒーを指し示す。
いつの間に置かれたのか、ジノリのコーヒーカップからは柔らかな白い湯気と、ふくいくたる香りが漂っていた。相手は幾重にも上手であったらしい。
真澄は肩をすくめて見せ、完敗の意を表した。そしてカップを取り上げ一口啜ると、満足気に嘆息した。
「ありがとう。きみが淹れてくれるコーヒーはいつも絶品だよ」
「褒めても何も出ませんわよ」
「たまには素直に受け取ったらどうだ」
「ほほ…、そうですわね。ひねくれているのはお互い様ですわ」
「おれが?何の話だ?」
「そうやっておとぼけになるところですわ」
水城の瞳が色つき眼鏡の奥で妖しく光った。
「この際ですから、一言申し上げます。真澄さま、信号は青になったのに何故渡りませんの?」
突然、断崖絶壁に追い詰められた気がして、さすがの真澄も押し黙った。その様子を見て、なおも水城は言葉を被せてくる。
「身辺整理をされて、落ち着くまで行動できなかったのは、分かりますわ。大都も無傷では済みませんでしたものね。それでも破談に伴う業務不提携による損失も、この半年でようやく地ならしほどには埋め合わせ出来ましたわ。それこそ馬車馬のように、連日連夜働き詰めで」
「きみにまで大変な負担を押しつけてしまったことは深く反省しているよ」
「いいえ、真澄さま。それに見合う報酬はきちんといただいておりますので、お気遣いなく。それより最近のスケジュールでは、多少時間をプライベートに割くことも可能ですわよ?」
「まったくきみには敵わないな」
真澄は苦笑して席を立つと、デスクの後ろのはめ殺しの窓から眼下に広がる街並みを見下ろした。一面水滴に覆われたそれからは、景色を臨もうにも定かではないのに。
肯定とも否定ともとれない曖昧な返事をしたきり、黙り込んだ背中を水城は歯痒く見つめる。
「マヤちゃんと想いが通じ合ったのではありませんの?」
あけすけに訊ねてみても、答えはないままだ。紫のバラの秘密を知り、以前より仕事上の立場を踏み越えて、上司の恋路にアドバイスとも挑発ともつかない謎掛けをしかけてきただけに、此度の真澄の決断は水城にとっても感慨ひとしおであった。
しかし、もっと晴れがましい表情が拝めると思っていたのに、いつまでたっても相変わらずの陰鬱ぶりに辟易する。
マヤにしても、「紅天女」の舞台では阿古夜の恋の台詞から真澄へのひたむきな情愛が感じられて、思わず赤面してしまうほどであったのに、最近人づてに聞いた様子では、笑顔にはどことなく翳りがあり、稽古での演技に今更黒沼からダメ出しをされる始末だと言う。無論、そのことは真澄の耳にも入っている。
「私が申し上げるのも何ですけど…。待つ身、というのは辛いものですわ」
「…お互い、『信じて待つ』と約束した」
「口約束ひとつで貴方はあのこを放って置かれてるのですか?大都に所属させ守ってやることもせず、紫のバラも贈らず、一目会いに行ってもやらず。私、あのこが健気過ぎて泣けてきますわ」
「…おれは約束は守る男だ。いずれ必ず迎えに行く」
「そんなことは分かり切ったことですわ。いずれというのは一体いつになりますの?せっかく紅天女になれたのに、あのこはまだ真実の幸せを手に入れてないのですよ」
「真実の幸せ?」
「阿古夜は結局愛する一真とは、魂だけが寄り添う結末でしたわね。それでは真澄さまは?マヤは?生身の男と女は、魂の繋がりだけで満足できるとお思いですの?」
あからさまな水城の言葉に、真澄は狼狽して振り向いた。少年のように頬を赤く染めた上司を見て、水城は艶然と微笑んだ。
思いがけずマヤと想いが通じたあのバラ色の朝を、真澄は思い出さない日はなかった。だが長年秘めてきた恋が実を結ぼうというとき、二人にはそれぞれ眼前に越えねばならない壁があったのだ。
マヤは「紅天女」の試演が迫っていたし、真澄には政略のための結婚を回避すべく、早急の決断が必要だった。
一度胸に抱いた甘美な恋の悦びを手離し、出口の見えぬ茨の道へと邁進するのは、身を切られる以上に辛かった。脇目もふらず、ひとつひとつ確実に切り拓き、今ようやく光明が見えて来たところだった。
見事「紅天女」を継承したマヤの演技は、素晴らしかった。どんな賛辞を費やしても、彼女の演技を形容するには到底及ばなかった。圧倒的な存在感。その溢れる慈愛に癒され、天女の啓示に畏怖し、なお惹きつけられる。
幕が下りた後の不思議な違和感。夢か現か分からぬ浮遊感に誰しも口を閉ざし、しばし幽玄の世界にたゆたった。
真澄が自分を取り戻したとき、すでに場内は静寂に包まれ、ただ一人茫然自失として、席に取り残されている自分に気づいた。
例にもれず、舞台の後、マヤに紫のバラを贈るつもりでいた。だがしかし、この醜態とも言うべき有様に、真澄は釈然としない思いを抱いた。彼女の演技を、その想いを受け止めきられない己の卑小さに愕然とし、今更匿名のメッセージと共に、紫のバラを贈ることに何の意味も見出せなかった。
そして真澄は決意する。
総てが終わったとき、紫のバラを抱えて迎えに行くーー。
このときの決意が正しかったのか否か、思いの外かかり過ぎる時間の経過と共に、不安が重くのしかかる。
心の支えであった紫のバラが届かずに、マヤは傷ついていないだろうか?
おれと同じように二人の約束が支えになっているのなら、平気なはずだーー。
それは一人よがりな自惚れだったのかも知れない。現に彼女は演技に乱れが出ている。
自分の勝手なやり方で、またしてもマヤを追い詰めてしまっている事実に、言葉を失う。
「水城くん、おれはいつまでたっても朴念仁なのだな」
「きっと不器用なだけですわ」
水城のイヤミとしか受け取れない下手な慰めに落胆すると、いっそ開き直ろうかという思いが沸き起こる。会いたい気持ちをこれ以上抑えても、お互い百害あって一利なしだ。真澄はおもむろに机上の整理を始め、水城を戸惑わせた。
「真澄さま?」
「この後もただ書類とにらめっこだろう?残りは明日にまわす」
言うが早いか、颯爽と社長室の入り口へ向かった真澄は、ドアノブに手をかけたところで、呆気に取られている秘書を楽しげに振り返った。
「『紅天女』の稽古の視察だ。今日はもう社に戻らないから、そのつもりで」
「ま……!心得ましたわ」
いたずらの共犯者宜しく、笑みを交わすと、真澄は水城に見送られて社長室を後にした。
エントランスまで下りて行くと、水城が手配したのか一台の社用車が後部ドアを開けて待っていた。
運転手が傘をさしかける。真澄はゆったりとした後部座席に納まると、つづけて座席に戻りハンドルを握った運転手に、行き先を指示した。
「キッドスタジオへ」
車は水しぶきをあげながら、黒く濡れた幹線道路へスムーズに合流した。
雨を除けるワイパーの早い動きが、自分の鼓動に合わせてリズムを刻んでいるようだ。らしくもなく逸る気持ちをどうにも抑えられず、真澄はシートに深く身を沈め瞑目した。
ーーマヤ。こんな風に衝動的に会いに行くつもりなどなかった。
いや、おれはいつだってきみに会いたくて会いたくて堪らなかったんだ……ーー。
ほどなくして、目的地に到着した。車を降りると、いつのまにか雨は止んでいた。
建物内に入ると、異様に閑散としていて真澄は一瞬頭を巡らせる。
稽古日のはずだが…、と訝しく思って奥のスタジオの扉へ手をかけると、中には黒沼と数名のスタッフが談笑しているだけだった。
戸惑いを隠せず立ち尽くしていると、真澄に気づいたスタッフが黒沼に声をかけた。
「よう、若旦那。どうした?久しぶりだな」
黒沼が朗らかに近づいて来て、気安く真澄の肩を叩いた。
「黒沼先生、どうもご無沙汰しておりました。今日は…稽古日のはずでは?」
「ああ、急遽早めに上がることにしたんだ。どうも調子の上がらない役者がいるんでね。どうせ明日から稽古休みだ。せっかく来てもらったのに悪かったな」
何となくバツが悪い思いがして、真澄は横に視線をそらした。
「…そうでしたか。いえ、僕こそ思い立って、突然お邪魔して申し訳ありませんでした」
「あんたが来ると知っていたら、あいつだけ居残り稽古にしておくべきだったな」
そう言って黒沼は、顎髭をわしわしとさすりながら意味深に笑っている。
「まったく、ようやくのお出ましだな。ここに来たってことは、あんたの方の整理がついたってことだろう?そろそろうちの天女サマを迎えに行ってやってくれ」


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