『薔薇の吐息は甘く微笑む』 ::: 3 :::
by kurechiyo





ぬばたまの夜は忍ぶように空を墨色に染めた。
今宵は新月で、幽(かそ)けき星の瞬きも隈なく闇に塗り潰されてしまい、空と森の境も判らない。

その日も何事もなく一日が過ぎた。
ひとりきりの夕食を終え、狐につままれたような面持ちで部屋へと引き揚げる。
この館は本当に野獣の棲家なのだろうか?影も形もない不確かな恐怖だけはずっと背後に貼りついて、マヤは幾度となく暗闇を振り返る破目になった。
鏡に映る家族の姿、ひとりでに用意される三度の食事、夜の訪れとともに灯るシャンデリアや燭台のあかり……。
説明できない不可思議は、確かに日常とは異なる世界の証なのだと言える。それでも肝心の野獣本人が姿を現さないままでは、謝罪も出来ずに徒に不安な無為を過ごす日々に気が狂いそうになる。
マヤは思いがけずに生き永らえた命に、束の間の安息を感謝しつつも、釈然としない物思いと憂鬱な焦りを抱いたまま今夜もベッドにその身を横たえた。
溜め息を吐きながら、ごろりと仰向けになる。と、部屋の暗がりに闇とは別の気配を察して、マヤは慌てて飛び起きた。
「だっ誰かいるの!?」
「おや、脅かせてしまったかな?おやすみの挨拶に伺っただけなのに」
含み笑いを持たせた声がしたかと思うと、闇から生まれ出でるように長身の影が姿を現した。燭台の火をかざすと、いつの間にかドアの横の壁に寄りかかるように男が佇んでいて、マヤは声を失う。
見たこともない秀麗な男は、嘲笑に片頬を歪ませて口を開いた。
「きみはまったく無防備だな。はじめからおれがこの部屋に忍んでいたというのに、気づかずベッドに横たわるとは」
「な、何なんですか?あなたは…っ!レ、レディの部屋に勝手に入り込むなんて、失礼ですっ!」
「レディ?ここには豆ダヌキしか居ないじゃないか」
「マメ…!?」
マヤは状況も忘れて、ただ絶句した。ここが野獣の館である限り、いきなり現れた無礼極まりない男の正体が野獣本人であることなど判りそうなものなのに、怒りの感情はそれさえ忘却の彼方へと押しやった。
「しょ、初対面にも関わらず、随分と失礼ですね!あなた、一体誰なんですかっ?」
「くくく、実に元気のいいチビちゃんだ。当分、退屈せずに済みそうだな」
「チビちゃんですって!?」
ますますマヤは激昂して顔を真っ赤に染めあげた。男はいなすような柔和な笑みを浮かべたかと思うと、疾風のようにベッドへ近づいて、天蓋から長く垂れた透き通るカーテンの内側へと身体を潜めた。そして有無を言わさずマヤを押し倒すと、驚く彼女の細い顎を捉えるや尊大に言い放つ。
「きみはここでおれと一生を暮らすことになる。もう二度と家族とは会えないつもりで、覚悟するんだな」
「なっ、なにを…!」
男の言動に、マヤは当然暴れて抵抗した。すると彼はいとも簡単にマヤの両腕を掴んで、頭の上でひとつにまとめて片手で固定した。必死に腕を振り解こうとするが、どんなに力を込めてもビクともしない。男の澄ました声が尚も朗々と響く。
「おれはこの館の主だ。ここでは何もかもがすべて、おれの思い通りになる。勿論、きみも」
「あたしはあなたの思い通りなんかにはならないわ!は、はやく、あたしの上からどいてくださいっ!」
「このおれに命令するとはいい度胸だ。ますますきみのことが気に入ったよ」
「い、いいから、この手を放してくださいっ!痛いし、それに重いんですけど!」
「きみは自分の立場が解っていないと見える」
あからさまに溜め息を吐いて、彼は形のよい眉を寄せた。そんな表情も様になっているのが、どうにも憎たらしい。
「何よ!あたしが、あなたの言う事を聞かなくちゃならない道理でもあるって言うんですか!?」
「薔薇をねだったのは、きみだろう?」
いたぶるような眼差しに、マヤはぐっと言葉に詰まった。男の言葉に当初の目的を思い出して、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「きみの所為で、きみの愚かな父上がおれの大事な薔薇を手折った。その罪を贖(あがな)う為に、きみはここへ来たんだろう?」
「た、確かにその通りです。父があなたにしたご無礼は、あたしが代わってお詫びします。ごめんなさい、どうか許していただけないでしょうか」
「口先だけの謝罪などいらん。もっと誠意を見せてみろ」
「ごめんなさい!あたし、何度だって頭を下げますから。あ、あの、取り敢えず、この手を放して貰えませんか?」
このように押さえ込まれたままでは満足に詫びることも出来ないと、その体勢の危うさに焦れて、マヤはただただ上目がちに男に懇願した。
彼は口角を上げて、愉快で堪らないとばかりに高らかに笑う。
「ははははは…!どうやら勘違いしているようだな。きみに誠意というものとは何か、教えてやろう」男の瞳が、禍々しく光った。
「きゃ…!何をするんで…あっ!」
首筋に鋭い痛みが走った。男がそこに顔を埋めて、唇できつく吸い上げたのだ。さらに空いている手で無遠慮に彼女の乳房を揉みしだき始めると、マヤは力ずくの痛みに表情を歪ませて呻いた。
「い、痛い…!やあっ、やめてください!」
悲愴な訴えも彼の耳には届かないようだった。男は構わず手を下へ滑らせていき、まとわりつく長いスカートの嵩張る生地の上からマヤの腿を撫でまわした。
その手が性急に裾をたくし上げて、直に肌に触れてくる。大きな冷たい手の乾いた感触に、マヤは恐ろしくなって泣き出した。
「あ、ああ…っ。なんでいきなりこんなことするんですか…?うう…、あたしはただ、謝りたいだけなのに…っ」
「まだそんなことを言っているのか。いい加減、きみも愉しんだらどうだ?」
男の意地悪な指が、つと下着の上から彼女の秘所をなぞった。初めて感じる刺激なのに、なぜか身体の奥から込み上げるような目眩(めくるめ)く感覚があった。マヤは思わず身を捩ってその快感に震えた。
「やぁ…んっ!」
「ほら…、きみも感じているんだろう?濡れているのが自分で判らないか?」
「な、なに…?」
「こんなに滲ませて…。くくっ、チビちゃんのくせに、なかなかにそそられる…」
そう囁いて、顔を背けるマヤの耳元に熱い吐息を吹きかける。蹂躙する指は、尚も蠢くのを止めない。下着を脱がそうとする動きに気づいて、マヤは慌てて足を振り上げて抵抗を示した。ばたばたと渾身の力を振り絞って高く蹴り上げると、男は閉口してようやくマヤから離れた。
「まったく…。活きが良過ぎる、というのも興醒めだな。困ったチビちゃんだよ。次の機会には、もう少し雰囲気というものを考えてくれ」
「あ…!非道い、非道いっ!あなたって本当に非道いっ!」
「きみはもう鳥籠の中の小鳥だ。さえずる声も可愛いものだな」
平然とのたまう男に、マヤはきっと睨みつけて叫んだ。
「出て行ってください!あなたみたいな下劣な男、見たことないわ!早く出て行って!!」
「ふ…。仰せの通り、今夜はこれで退散するとしよう。おやすみ、チビちゃん」
さも可笑しそうに肩を揺らして、男は結局、名も名乗らずに部屋を辞した。
「誰がチビちゃんよ!!」
悔しまぎれに閉ざされたドアに枕を叩きつけてみたが、外の廊下から哄笑する男の声が聞こえてきて、なおさら腹立たしさが増しただけだった。マヤは勢いよく頭から毛布を引っ被って丸くなった。
――何よ何よ、あの男!豆ダヌキですって?チビちゃんですって?悔しいっ!もっと言い返してやればよかった!!
男の姿を見止めた途端に、驚きと同時にその麗しい外見に見惚れてしまった。そのことが、今の彼女には悔やまれてならない。男は完全にマヤを侮っていた。成人を迎えていながら、女の色香は足りないと自覚しているマヤであったが、「豆ダヌキ」「チビちゃん」とからからわれることには微塵も納得がいかなかった。
それに何よりも、このような陵辱に遭ったことに激しい憤りを感じていた。しかし彼の為すことを本能的に嫌悪しつつも、一瞬感じた甘い快楽にマヤはどこか言い知れぬ予感を禁じえなかった。
しっとりと下着を濡らす秘所の潤みに、あの男の言葉通り、薔薇の報いに抗えない運命を自覚したからかも知れない。
――今度会ったら、ただじゃおかないんだから…。
精一杯の負け惜しみを、脳裏に浮かんだ不遜な横顔にぶつけて、マヤは固く瞼をつむるしかなかった。そして、いつしか眠りに落ちていた。
窓辺の花瓶に生けられた大輪の紫の薔薇から、ビロードのような花弁がひとひら床に舞った。



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