『薔薇の吐息は甘く微笑む』 ::: 4 ::: by kurechiyo ![]() マヤは広間で、やはりひとりきりの夕食を終えたところだった。 趣向を凝らした豪勢な食事は彼女の舌と胃を大いに満足させたが、その美味しさを分かち合う相手もいない食卓など、うら寂しいだけである。 彼女は本来なら、忙しく立ち働いている方が性に合っている。なのにここでは、家事や炊事といった普段一手に担っていた雑多なことも、気づけば何もかもが勝手に整えられているのだ。 降って湧いた手持ち無沙汰に、マヤは時間を持て余して日中をただ無為にやり過ごしていた。 未だ殺されるかもしれないという恐怖と常に背中合わせでは、することなすことすべてが虚無に感じられ、何事も手に付かないといったところであった。 細く長いため息を一日の気苦労とともに吐き出すと、ふいに背後から声を掛けられる。 「チビちゃん、食後に紅茶など如何かな?」 咄嗟に振り向けば、いつの間にか音もなく開かれたドアを肩で押さえて、銀製のティーセットを手にした長身の男が不敵な笑みを浮かべている。 「あ…!あなたは昨夜の…!」 「今夜は暫し、おれに付き合ってくれ給え」 男は広間を横切り、暖炉脇に設(しつら)えられたアンティークなデザインのティーテーブルにトレイを載せると、マヤの返事を待たずにカップに紅茶を注ぎ始めた。 マヤは昨夜からの腹の虫が未だおさまらずにいたので、大股に近づいて行くと憤然として抗議の声を唱えた。 「あの!あたしまだ、あなたとお茶するなんて言ってませんけど!?」 「さあ、ここに座りなさい」 彼はマヤの言をさらりと受け流して、椅子を引いて着席を勧めた。その傍若無人な態度にますます腹を立てたマヤは、頑としてその場に立ち尽くした。 ――なんて男なの!何でも自分の思い通りになると思っているんだわ…! 肩と眉を怒らせて口をへの字に曲げて睨んでいると、男が堪え切れずに声を上げて笑い出した。 「はははは…!なんて顔をしているんだ、きみは。それでよくレディだと主張したものだな」 「し、失礼ですね!あたしの顔は元からこんな顔なんです、放っておいてください!」 「顔の造作、という点では、きみは充分可愛いよ」 「はっ!?か、からかわないでください!」 「そんなしかめっ面ばかりではなく、笑った顔も見せてごらん」 そう言って、彼は長い指でマヤの前髪を掬い上げた。微かに額を掠めた指先の感触に、ぞわりと身の毛がよだつ。この男が怖いのではない。何か得体の知れない予感が全身を貫いて、この身がどうにかなりそうな、そんな馬鹿馬鹿しい想像に恐怖したのだ。 案の定、男は他愛もないからかいに身を竦ませたマヤを目を細めて見遣ると、単刀直入に尋ねてきた。 「きみはまだ男を知らないのか」 「そっ、そんなのあなたに関係ないでしょ!」 「それは肯定したことと同じだな。それならそうと早く言えば、昨夜はもっと優しくしたのに」 「なっっ!あたしが物慣れたように見えましたか!?あ、あたしは結婚するまで操は守るものだと思っていますけど?」 「成程な、実に処女らしい御高説だ」 くくく、と愉しげに喉を鳴らして、彼は再度マヤに椅子を勧めた。 「座り給え。きみと少し話がしたい」 「…わかりました。あたしも、あなたに訊きたいことがあります」 諦めて素直に腰を下ろしたものの、何を言っても結局はこの男のペースに巻き込まれるのだと思い知らされて、マヤは面(おもて)に不愉快さを隠さなかった。口では到底敵わなくとも、どうにか一矢報いてやりたいと唇を引き締める。男は同様に向かいの椅子に腰掛けると、悠々と長い足を組んで湯気の立つ紅茶を一口含んだ。 「…さて。この館での生活に不自由はしていないかな?」 「…あなたは、何者なんですか?そもそも名前だって、まだ訊いていないわ」男のそれには答えず、マヤは己の疑問をぶつけた。彼は質問に質問で返したマヤに気を悪くするでもなく、僅かばかり小首を傾げて、柔らかな眼差しでマヤにもカップを取るよう促した。しかしマヤはそれも無視する。 「答えてください。あなたは誰?この館の主だと言うなら、父の言葉通り、あなたが野獣なの?それとも魔法使い?」 「答えは半分でている。それ以上の追求は無意味だ」 「そんなんじゃ、さっぱり解らないわ!ここは何もかも解らないことだらけ。他に誰もいないのに広間には毎日の食事、夜が来ればあかりが勝手に灯るのはどうして?そして、あたしをどうするつもりなの?」 「きみも冷めないうちに飲み給え。折角きみに合わせて、渋みの少ない甘い香りの茶葉で淹れたんだ。砂糖とミルクもあるから、好きに使うといい」 それは優しい物言いだったが、絶対的な命令の意味が込められていた。彼は微笑を貼りつかせたまま、氷のように凍てついた瞳でマヤを射抜いた。 マヤは押し黙ってカップを取り上げ、仕方なく口をつけた。強い花の香りが鼻腔をくすぐる。味わいは蜜のように甘いのに後味はあっさりとしていて、とても飲みやすかった。 「…美味しい。それに、とてもいい香り。これは蘭のような…でも薔薇かしら?」 「そう、薔薇だ。お気に召して貰えてよかった。この茶葉は薔薇より蘭の香りの強いものの方が極上品らしいが、おれはそれは好きじゃない」と、彼は嬉しそうに説明した。 「…答えて欲しいのは、そんなことじゃないわ。あなたが何者なのかも知らずに死ねと言うの?殺すつもりの人間に正体を教えることなど必要ないと?」 男は紅茶を飲み干して、ははは、と高らかにまた笑った。 「おれはきみを殺すつもりはない。ずっと、この館に居てもらう。おれの側から離れることは許さないから、そのつもりでいろ」 「どうして…!薔薇を盗んだ報いに、命を奪うと父に言ったのはあなたでしょう?父が大切な薔薇を手折ってしまったことは心からお詫びします。ええ、何度でも!だからあたしを殺さないというなら、その罪を許してくださると言うなら、もうここから帰して…!」 「それは出来ない。昨夜も言っただろう?薔薇をねだったのは、きみだ。だからおれはきみの命を奪う代わりに、きみをおれのものにする」 「なんですって…!?」 驚いて飲みかけのカップをソーサーの上に取り落とすと、ガチャンと異質な音を立てて、明るい黄色がかったオレンジ色の中身がはねた。テーブルに幾つかの小さな水玉模様を描いたそれは、直ぐに男が胸元のチーフを取り出して跡形もなく拭い去る。 声も出せずに、マヤはただ男の繊細な指を眺めていた。先程、自身に不思議な衝撃を与えた指の、その滑らかな動きを見ていると、なぜか身体の奥でざわめくものがある。 揺れる瞳だけでその行方を追うと、ティーテーブルの縁に力なく置かれていた己の手の上に重なり、そっと柔らかく握り締めた。 一切のぬくもりを感じない冷たい手。マヤが戸惑っていると、男が唐突に言った。 「マヤ、おれと結婚して欲しい」 耳を疑った。それは彼女の思い描いていた理想を無視して、ふいに夢を破った。名を呼ばれた驚きよりも、勝る動揺が彼女を打ちのめした。 マヤは揺れる視線を男の顔へと転じた。そう遠くない未来予想図を共に描く相手。ときめきを抱いて待ち焦がれていた誰か。それは勿論、今この手を握るこの男であるはずがない。 彼女は俄かには信じ難い思いで、首を左右にゆっくりと何度も振ると、体温を感じない不気味な手から逃れようと立ち上がった。椅子が大きな音を立てて無様に倒れる。 しかし逆に強く掴まれ、その場に縫い止められる。マヤは声を振り絞って叫んだ。「放して…!」涙で声が震えていた。 「嘆くことなどない、きみの意思を尊重した上でのプロポーズだ。きみが同意してくれるまで、昨夜のようなことはもうしないつもりだ。結婚までは処女でありたいんだろう?おれは約束は守る男だ、安心し給え。何か他に問題でも?」 「やめて!そんなこと出来るはずがないでしょう…!?好きでもない人となんて…。だって、あたしたち昨夜出会ったばかりで、お互いのこと何にも知らないのよ?」 「おれはマヤのことだったら何でも知っているとも。きみの名も、初舞台の演目だって、きみの部屋にちゃんと証拠があっただろう?」 言われて、はっと気づく。寝室のドアに掛けられたネームプレート、部屋に用意されていた何冊もの戯曲。彼女が感じた不思議には確かな意図が隠されていた。マヤは空寒くなって、その身を小さく震わせた。青ざめた表情で、虚ろに呟く。「どうして…」 曖昧に語尾をぼかしたのは、理由を聞くのが恐ろしかった為だ。何もかも見透かされているような心許なさに、マヤは怯えて視線を逸らすことさえ出来ない。 「ずっと、きみだけを見てきたんだ」 そう言うと男は立ち上がり、掴んだままのマヤの手を持ち上げて、その甲に口づけた。押し付けられた柔らかな唇の、意外な熱さに戦慄を覚える。 「マヤ、おれはずっときみを待っていた。もう以前から、きみのことを実は知っていたんだ。きみだって望んでこの館に来たんだろう?どうかこの想いを受け入れて欲しい」 「い、や…。嫌です!あたしはあなたなんか知らない!そんなことの為にここに来たんじゃない…!」 激しく被りを振ると、マヤは男の手をやっとのことで振り解いた。訳がわからなかった。この館を訪れたときから、どこか掴み所のないもやの中を漂っているような感覚が終始付き纏っていたが、今こそその通りに現実が夢であったなら、とマヤは神に強く祈る思いだった。だが、まるでゲームや賭けでも始めるかのような男の気軽な口振りが、彼女の祈りをあっさりと断ち切る。 「知らないなら知りたいだけ、幾らでも教えてやる。それに、これからの季節はせっかくの夜長が続く。せいぜい言葉を尽くして、きみを口説くまでだ」 「やめて、それ以上何も言わないで!あなたなんて嫌いよ、大っ嫌い!絶対、結婚なんてしませんから!」 「また明晩、お目にかかろう。…そうだ、名を知りたがっていたな。おれのことは速水、と呼んでくれ。速水真澄、それがきみの夫となる男の名だ」 おやすみ、と耳元にそっと囁いて、速水とようやく名乗った男は外套を翻して、暗く長い廊下へと消えて行った。 ::: 前へ ::: もくじへ ::: 次へ ::: ![]() ■おしながきへ戻る |