『薔薇の吐息は甘く微笑む』 ::: 5 :::
by kurechiyo





夜毎紡がれる甘い恋の調べに、心ときめかない娘などいるのだろうか。ましてや、あのように端正な面差しで、真摯に見つめられ、優しく耳元で囁かれたのならば。
抗う術など、あるはずがない。瞳を逸らすことも、聞き流すことも困難であるのに。きっと、そんな逃げ道は天地を逆さにしても何処にもありはしないのだ。
速水真澄。そう名乗った男のことを思い浮かべていた。

いっそ、初めてこの館を訪れた夜に自死を選べばよかったのだ、と今更彼女は後悔する。
あまりに突然の求婚。意にそぐわない相手。…まるで夕闇のような男。不確かで密やかな美しさに、恐怖と陶酔を覚えた。
マヤはあの夜に掴まれた左手を、ランプの仄暗い灯りにかざして眺めていた。彼に口づけられた箇所が、未だ熱を持って疼いているようだった。
瞳を閉じる。反芻していた。口では拒絶を顕わにしながらも、その反面激しい動悸に襲われ、次第に昂揚していく気持ちを抑えることに必死だった。
彼女とて恋に憧れ理想に夢想する、巷にありふれた乙女たちと何ら変わりはないのだ。しかしマヤは葛藤も抱えていた。彼女ゆえの、昏い葛藤を。

――だめ。だめよ…。きっと言葉巧みにあたしを籠絡して、夢中にさせておいて結局はあっさり殺すつもりなんだわ。そうよ、きっとそうよ…。

殺して欲しい、と思う投げやりな気持ちが、この身のどこかに存在することに気づいていた。どうかしている。家族が帰りを待っているのに。
家族…いや、父だけだろうか。しかしその父親だって、マヤが代わりに野獣の元へ命を投げ出すと言った途端に、己の本来の役目を放棄したのだ。
殴ってでも縛り付けてでも、その気になれば大事な娘を野獣と恐れられる男の元へ送り出すことにはならなかったはずだ。
常に猫可愛がりするだけで、その実マヤの苦悩や負担には知らぬ存ぜぬを決め込み、黙殺してきた情なし。それが彼女の父親だ。
愛されている、愛していると思い込むことで、心の均衡を保ってきた。だが、今回の件でそのどちらも嘘で塗り固められたものだということが、露見してしまった。
一度剥離してしまえば、振り子の糸が切れるのもあっという間だ。マヤはもう、彼らの元へ戻るつもりはない。

暗すぎるのか眩しすぎるのか、それさえも判らなくて何も見えない。沈んだり浮んだりを繰り返しながら、真昼の海溝を漂っているかのようだ。
塩水に浸かりながら、身体がふやけて融けていくのを待っている。もう何を頼りにすればいいのかすら、判らないから。
耐えるだけの毎日に疲れ、生き甲斐としてきた演劇を奪われ、せめてと望んだ薔薇も何もかも、結局は淡雪のようにこの手に残らなかった。

誰も自分を愛していない。必要としていない。
表面だけのお為ごかしが欲しいのではない。たったひとつの真実の愛が欲しいのだ。
手に入らないのなら、せめてもの代わりが必要だ。
演劇は生き甲斐だった。あの日の感動を彩った紫の薔薇は、舞台の上で一瞬でも輝くように生きた証だった。
散ってしまっても尚、マヤを励まし、またいつかに思いを馳せさせる希望の種を蒔いて残した。
希望は裏切ることなく、いつまでも君臨し続ける。ただ、遥かな高みをいくら見上げても届きはしない。
しかし、あの時と同じ紫の薔薇は、この館には幾らでもある。あの男と共に。
小さく頷くだけで、誓いの口づけを交わすだけで、永遠に手に入るのだ。
…自由と純潔と、ただ引き換えに。

ずっと、焦がれて止まないものがある。
たった一輪の薔薇でいい。
もう一度、この手にすることが出来たなら――…。

こんな想いは初めてだった。
どうしても、手に入れたいと思った。理屈や建前など必要ないことがこの世にあるのだと、彼は初めて知った。

いつの日からだったか、彼の辣腕を貶めるような評判が出回り始めた。“ 冷血漢 ”、“ 人非人 ”、“ 情け知らず ”…。
彼はそれらを取るに足らないものと、周囲の忠告や同情までも一笑に付した。かえってその方が煩わしい人間関係から解き放たれる、と好都合に思った。
結果がすべて。手段など選ばない。そうして、欲しいものは何でも手に入れてきた。人心を失くし、いつしか孤独を好むようになっていた。
ゆえに、彼はぬくもりあるものを否定した。人里の喧騒を嫌い、趣味の狩猟用に所有していた別邸へと住まいを移した。滅多なことでは誰も訪れないような、深く蒼い森の奥――。

念願の静寂に包まれながら、謂れのない喪失感に押し潰されそうになっていた。不意に、以前読んだ異国の説話を基にした奇譚を思い出す。
ひとりの気位の高い男が、孤独の山中で卑しい猛獣へと変貌を遂げる、という物悲しい物語。…物悲しい?
腹の底からくつくつとした笑いが込み上げる。滑稽だと思った。まるで自身の身の上と重ねて、荒唐無稽な彼の人生にひどく同情でもしているようではないか。馬鹿らしい。
こうして隠遁する生活は、確かに世間で噂されている通り、“ 野獣 ”の如く荒涼として自暴自棄に満ちている。しかし、それのどこが物悲しいというのであろうか。
真澄は手元のグラスを壁に投げつけた。琥珀色の液体が、砕けた硝子と一緒に千々に飛散して、あちらこちらにいびつな染みを残した。

彼が出資している幾つかの団体のひとつに、演劇の為の劇場を運営するものがある。
その日、気まぐれに足を向けたのは、まったくの偶然であり、彼女との出会いは、まったくの運命だったのだ。
初めて見る女優だった。当たり前だ、これが初舞台だと言うのだから。だが、その演技に往年の名優たちをも凌ぐほどの、筆舌に尽くしがたい感動を味わった。
一瞬で惹かれた。無意識のうちに。失くしたものを、ようやく見つけた気がした。

紫の薔薇を贈ったのは、稀有な才能への表敬と彼女の気を引く為のありきたりな手段に過ぎない。
館の庭園に咲く無数の薔薇たちは、不思議な事に明け暮れに枯れもせず、常に大輪の花を綻ばせていた。ひとりきりの彼の心に寄り添うように、いつも物言いたげに風に揺れながら。
彼はとりわけ花を愛でる雅な心を持ち合わせてはいなかったが、中でも紫の薔薇の美しさにはしばしば目を奪われた。
彼女の心を慰めるのに、これ程相応しい花はないだろうと思った。舞台を終えた彼女が束の間見せた瞳の色は、どこか自分と似ていたから。
何か足りないものがある。だから補ってやらねばならなかった。

空を流れる星の欠片は、光を失った後、何処へ行くのだろう。
例え、ただの礫(つぶて)と成り下がってこの世の果てに転がろうとも、行き着く場所があるというだけ羨ましいことだ。
眠れない夜を幾つ数えても、白く冷たい月は獣の姿を彼に与えはしなかった。
残月に照らされて、庭園の薔薇が寂しげな横顔を青白く浮かび上がらせている。夜露に濡れて、一雫の涙を流しているかのような姿は、あの娘を彷彿とさせた。
マヤ。名を口にするだけで、妖しいほどに心が波立つ。

彼は思う。何を待っているのだろう。紫の薔薇がつないだ縁(えにし)は、蜘蛛の糸より頼りがないのに。それでも、ひたすらに予感を手放せずにいるのだ。
この世に必然があるなどと、彼女が知っているとは限らない。誰だって目隠しされたまま、傀儡(くぐつ)のような人生をただ歩かされているとは思わないだろう。
抗う術などない。運命の理(ことわり)に何処までも翻弄されるだけだ。

針のように次第に細く尖っていく感情を持て余しそうになっている。それはきりきりと弓なりにしなって、唯一彼女の心臓だけを狙い定めていた。
愛と狂気は紙一重。衝動的に何もかも破壊してしまいたくなる。彼は闇から呼ぶ声に、必死に耳を塞いだ。

運命の砂がさらさらと落ちる音が聞こえる。粉雪のように静かに深々と降り積もる。彼の腕も脚も、心地良い重みに沈んで見えなくなっていく程に。
例えその砂に埋もれて息が出来なくなっても、構わない。
それ程に彼は、孤独だったのだ。



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