『薔薇の吐息は甘く微笑む』 ::: 6 ::: by kurechiyo ![]() クローゼットを開ける。色鉛筆のように整然と並べられた中から、マヤは一着の真新しいドレスを選んで取り出した。 袖を通すと、しっとりとした感触が肌に馴染んで心地よかった。ふんわりと広がる長いスカートの裾に幼い頃の憧れが重なって、うっとりと酔いしれる。 毎日のように届けられる贈り物の山に彼女は困惑しつつも、若い娘ながらに心がときめいてしまうのは仕方がなかった。 絹のドレス、色取り取りの宝石を散りばめた首飾りやブローチ。それに大きな羽根をあしらった流行りの帽子。どれもこれも、極上の品だった。 昼間はいつもひとり。夕闇の訪れとともに、彼は何処からともなく闇に乗じて現れた。 「マヤ。今日は何をして過ごした?」 まず、真澄は決まってそう尋ねた。そしてマヤは不貞腐れながらも、毎日律儀に同じ回答を繰り返す。 「食事をして、庭の薔薇を眺めて、本を読んでいました。すっかり台詞も覚えて、立つ舞台があればいつでも出られます」 「そうか。おれと結婚しても、家庭に縛り付けるつもりはないから安心し給え」 「あなたとは結婚しません!いい加減、諦めて貰えませんか?ここに残ることは約束しますから」 「それは出来ないと言ったはずだ」 穏やかに微笑んだまま、きっぱりと言い放つ。彼は黙り込んだマヤの全身を眺めて、満足げに目を細めた。 「そのドレス、よく似合っている。きみが普段選ばないような色だから、着て貰えないかと思っていた」 「だ、だって他のドレスこそ、どれも大人っぽいデザインばかりなんですもの。これが一番シンプルで可愛かったから」 絡むような視線を強く見返して、マヤは明るい藤紫色のドレスの長い裾を摘まみ上げた。ベルスリーブが特徴の、さりげなくレースやリボンがあしらわれただけの気取らないデザインであったが、唯一大胆に背中が大きく開いている。マヤは顕わになった肌を覆い隠すように、長い黒髪を無造作に下ろしていた。 「今日はきみにプレゼントがあるんだ」と、真澄はおもむろに懐中から縦長の小箱を取り出して言った。「いい石を見つけたんでね。首飾りにして貰って来たよ」 「そんな、毎日じゃないですか!あたしこんなにして頂いても困ります」 「気にするな。きみに似合うと思って、おれが勝手にしていることだから」 「でも…!」 「丁度そのドレスの色に合いそうだ。今、つけてみてくれ」 いつもの強引さでマヤの言葉を封じ込めると、真澄は首飾りを手に彼女の背後に回った。こうなっては彼の言葉に従うしかない。マヤは渋々両手で髪を左右に振り分けて前へ垂らすと、白いうなじを彼の前に晒した。 毎夜続く彼の執拗な求婚は、最初の宣言通り、蕩けるような甘い誘惑の呪文の連続だった。これまでの彼は傲慢な面はあるものの、彼女の危惧に反して、短慮な振る舞いや殺伐とした雰囲気といったものとは無縁だった。地の果てまでも追い詰めて殺すとまで言った、父を恐怖に突き落としたあの狂気は微塵も感じられない。 それに何より優しかった。例え上流階級の習慣に過ぎないのだとしても、淑女の扱いを受けるのに慣れない彼女を丁寧に見守る真澄に、マヤの心はいつしか華やいだ。 “ 野獣 ”と畏怖される彼の、実に意外な紳士的な態度につい心が動かされそうになる。いや、既に関係は半ば打ち解けて、マヤは夜毎の会話を密かに楽しみにしていた。 彼は本当にマヤの命を脅かすつもりなど毛頭なく、言葉通りに愛を乞うているだけなのかも知れない。 だからマヤは知らずに気を許していたのだ。首筋に冷たい鎖が触れても、俯いた視線の先の透き通るような紫水晶の濃い輝きに夢中になっていた。 「綺麗…。アメジスト、でしょう?」 「そうだ。きみの誕生石だから、最高のものを選ぶのに苦労したよ」 「あ…あたしの誕生日、知っていたんですか?」 「きみのことは何でも知っていると言っただろう?」 からかうように耳元で低く囁かれた。肌が粟立つ。次の瞬間、彼はマヤの耳朶に唇を寄せて、そっと食(は)んだ。そのまま声を上げる間もなく、生温かい感触がしたかと思うと耳の輪郭に沿って舌でなぞられる。マヤはようやく逃れるように身動ぎをした。「あ…っ!」 「動くな。鎖が切れてしまうぞ」 真澄は繊細な鎖をマヤの首に回したまま、唇をうなじへと這わせた。小さな留め具を持ったその両手は、なだらかな肩に置き去りにされている。 「きみのことは何でも知っていると思っていたが…。こんなにも艶かしい秘密をまだ隠していたんだな」 「…や、やめてくださ…」 「綺麗だ…。抜けるように色が白くて…、とても…滑らかな肌をしている…」 「あぁ…んっ!」 首筋をきつく吸われて、マヤは堪らず嬌声を漏らした。最初の夜の出来事が駆け上がるように甦って、ただただ身体を震わせることしか出来ない。真澄は弓なりに仰け反る背中に夢中で舌を這わせる。唾液で濡れた肌に熱い吐息を吹きかけながら、彼はもどかしげに呻いた。 「そんなに甘い声でおれを誘うな…!きみをどうにかしてしまいたくなる…」 理不尽な言葉に慌てて口元を両手で覆うと、いつの間にか涙が頬を伝っているのに気づく。マヤは嗚咽を堪えるのに必死だった。 恐ろしかった。彼の冷酷な裏切りに、悲しみの雫が無情に流れ落ちていく。 不意に、真澄の唇が離れていく気配がした。深く荒い呼吸を整える中に、小さな輪を繋げる音が微かに聞こえた。凛然としたアメジストが鎖骨に引っ掛かるようにして、他人顔でぶら下がっているのを目の端で捕らえる。ゆっくりと大きな冷たい掌が遠退いて、その場所に体温がゆるゆると戻っていく。感覚はこんなにも敏感なのに、意識だけが鈍感だった。 マヤは振り向かれずに居た。涙がとめどなく溢れるままに、藤紫色のドレスにぽたぽたと濃い紫色の染みを作っていく。震える肩越しに真澄が突然腕を回して、強く抱きすくめた。 「マヤ、怖がらないでくれ…。きみを怯えさせるつもりはなかったんだ。きみを愛している。おれはもう気持ちを抑えられそうにない…!」 「やめて…」 「お願いだ。おれと結婚する、と今すぐ誓ってくれ。おれはきみなしでは生きていけない…」 切ない声音を震わせて、真澄が哀願するようにマヤの濡れた頬に荒々しく顔を押し付けた。涙の跡を唇で辿り、まなじりに口づけると、幾度となく紡がれた愛の言葉を口にする。 「結婚しよう。おれはきみのものだ。そしてきみもまた、おれのものであってくれ」 「やめて!あなたとは結婚しないと何度も言ってるでしょう…!?それが許せないのなら、いっそ殺してください!!」 悲鳴のような拒絶を告げて、マヤは力強い腕の中で泣き崩れた。 「マヤ…!」 「あなたなんて嫌い…。どうして、そんなことばかり言うの?愛してる、なんて簡単に言わないで…!」 「きみがおれを嫌いでもいい。だが、おれはきみを愛している。側にいてくれるだけでいい。マヤ、おれを見てくれ」 「いや、いや、いや!もう、この手を放して!あたしをひとりにして!」 子供のように泣きじゃくるマヤを宥めるように今一度強く抱き締めると、真澄は躊躇(ためら)いがちに腕の力を抜いた。マヤがその場にうずくまる。 声を殺して泣き続ける彼女をいつまでも見守っていたかったが、胸が締め付けられるばかりで居た堪れなかった。 やがて窓の向こうに、雲間から月が姿を現すと、真澄は誘われるようにふらふらと足を向けた。 「暫くきみを忘れる努力をしてみる。無意味なことだが、きみの望みのままに」と、去り際に苦い言葉を残して。 ――…この列車は何処へ向かっているの? 終点までは、あとどのくらいあるのかしら。誰か迎えに来てくれているんでしょう? あたしは片道しか切符を持っていないのに。それに荷物もないわ。どうすればいいの。 駅をどんどん通り過ぎて行くわ。怖い。そんなに急がないで。 待って。置いて行かないで。 手を繋いでいて。ぎゅっと、強く握っていて欲しいの。 優しいのね。あなたといると安心する。 大きな手…。でも、どうしてこんなに冷たい手をしているの? 寒い。もう夜が来たみたい。真っ暗だわ。あなたの顔も見えないくらいに。 行かないで。側に居て。約束したじゃない。愛してるって言ってくれたでしょう? 違う。泣いてなんかいない。あたしもあなたのことが――…。 また、同じ夢を見ていた。場面も、台詞も、目覚めて途切れるところまで毎日一緒だった。理由は解っている。あの夜から、彼は彼の言葉の通り、マヤの前から存在を消していた。 ずっと、雨が降っていた。長い雨だった。窓から眺める薔薇たちは冷たい雫を纏って健気に震え、不幸なのは自分だけではないと、哀しい共感を誘うのだった。 マヤはベッドの上で、けだるい朝が日常に還るのを膝を抱えてぼんやりと待っていた。今日も機械的に一日が過ぎるのを、人形のように黙って静かに見ているだけでいい。 鏡の中の自分を確認する。泣いていた。いつから微笑えなくなっていたのだろう。 仮面が作れない。いつもの笑顔を思い出そうとするが、脳裏に浮かぶのは意地悪なあの男の不敵な笑顔ばかりだった。 強く打ち消そうとすればする程、ますます鮮明に浮かび上がってくる。マヤは残像を掻き消すように、きつく瞼を閉じるともう一度鏡を見た。 しかし、そこにマヤは居なかった。 鏡に映っていたのは、枕も上がらぬ重篤な病に伏した彼女の父親の痛ましい姿だった。 ::: 前へ ::: もくじへ ::: 次へ ::: ![]() ■おしながきへ戻る |