『薔薇の吐息は甘く微笑む』 ::: 7 ::: by kurechiyo ![]() 頼りない三日月の光では、道慣れた夜の森もそれなりの迷路と化すから不思議だった。昨夜までの長雨の所為だろうか、さらに道がぬかるんでいるのにもどうにも辟易する。 大地に血管のように複雑に張り巡らされた木の根が所々で罠のように隆起し、思わぬところに深い水溜りが残っていた。既に何度か足を取られて、靴も裾も水浸しだ。 まったく、ついていないと真澄は舌打ちした。今夜は何をしても踏んだり蹴ったりな気がする。 久しぶりの薔薇の館。灯りはとうに消え、草も木も眠りについている。勿論、彼女も。 たった数日離れていただけで、生き別れにあったような憂き目を感じていた。どうしようもない程に、焦がれている自分がいる。無意味な努力など、やはり時間の無駄でしかなかった。 彼女に会いたいと、心が血を吐くほどに叫び続けている。 階段を上る度、鈍く軋んだ音が心臓を抉るように響く。東向きの窓はまだ暗く、飢えた獣のような眼光を湛えた男の姿を映していた。手負いの狼。まさにそんな心境だった。 プレートに刻まれた名前を指でなぞる。自分が危険をしでかそうとしていることは明白だった。ドアノブに手を掛けてはならない。相反する心の声がせめぎ合う。 彼にはどちらが正解なのか判らなかった。会いたかった。それだけを言い訳にして、真澄は影のように彼女の部屋へと忍び込んだ。 マヤは頬をなぶる一瞬の風を感じて、まどろみから目を覚ました。闇の中では、まだ夢なのか現なのかがはっきりとしない。夜具に広がる長い髪を波打たせて、マヤはひとつ寝返りを打つ。 もう一度、夢の続きを見ようと目を閉じた。今なら自分の台詞の続きが知れるかもと、僅かな期待を託して。しかし、突然何者かが彼女の上に覆い被さって、それは叶うことなく現実へと引き摺り下ろされた。 「きゃ…」 声を上げようとしたところで、たちまち口を塞がれる。大きな冷たい手。それだけで誰か判った。 ――速水さん…! 「マヤ…。起こしてすまない。だが、会いたかったんだ。一夜毎にこの身が千切れていく苦しみを味わった…。やはり、きみを忘れようなどとは到底無理だった。ああ、マヤ、マヤ、きみに触れたかった。マヤ、やっと会えた…!」 狂おしげに眉根を寄せて一心不乱に呟く彼の様子は、どこか常軌を逸していた。それなのに不思議とマヤに恐怖はなかった。真澄が乱暴に彼女の髪を何度も梳くのさえ、むしろ夢の続きを見ているような錯覚の中で、言い知れぬ心地好さを感じていた。 口を塞ぐ手の下で苦しそうにマヤが喘ぐと、真澄はようやく気づいてその手を少し緩めた。指の隙間からマヤは大きく息を継いで、掠れた声で真澄に語り掛けた。 「は…速水さん、よかったぁ…。全然帰って来ないから、まさかあたしのこと忘れちゃったのかと思いましたよ…?」 「マ、マヤ…」 迷い猫の帰りを待っていたかのような、彼女の心細い笑顔が意外だった。彼が開けたのは確かに彼女の部屋の扉だったか?彼女は依然眠ったままで、自分の生み出した幻と会話する滑稽を演じているだけではないのか?真澄が確かめるように、何度も何度も彼女の艶やかな頬に両手を往復させると、それをマヤの華奢な手が捕らえてきつく指を絡めた。 「ねえ、どうしてこんなに手が冷たいの…?夜露に濡れてしまったの?外はとても寒かったでしょう…」 「…ああ。雨上がりの森はまるで意地悪だ。マヤに慰めて貰いたくて、それでつい押しかけてしまった…。それに、とても寂しかったんだ」 「ふふ…。案外、子供みたいなところもあるんですね。…いいわ、あたためてあげる」 そう言って、真澄の手を頬から外すと、そのまま自らの胸元へ導いた。思わず瞠目すると、彼女は悪戯っぽく微笑んでいる。 ネグリジェの薄い布越しに、時計の針のように規則正しい鼓動と弾力のあるふくらみを手のうちに確かめて、彼は一気に頭に血が上るのを感じた。 彼女の意思も確認せずに、ふたつの乳房に両掌を宛がう。マヤはそれでも優美な微笑みを見せていた。むしろ蠱惑的と言ってもよかった。 「マヤ、おれをあたためてくれ…」 うな垂れるようにマヤの胸に顔を埋めれば、柔らかなぬくもりに何処までも吸い込まれそうになる。押し包むようにして掌の下のふくらみの形を崩すと、彼女は小さく仰け反って真澄の頭を抱え込んだ。 吐息が漏れる。むせ返るような薔薇の匂いに似ていた。 真澄はマヤのネグリジェの襟元を開いて、露出した肌に隈なく唇と舌を這わせた。 彼の壮健な体躯の下で、マヤがしなやかに身体をくねらせている。真澄はふたりを隔てていた夜具を剥ぎ取った。 濃密な空気の中に冷たい夜気が忍び込んで、彼女は驚いたようにその身を戦慄(わなな)かせた。改めて強く抱き締めると、その震えはたちまち収まり、火照り始めた身体を摺り寄せてくる。 「マヤ、マヤ、愛している…!」 足首まである長い裾を大きく捲り上げると、闇の中に仄白い素足が顕わになった。すかさず手を大きく広げて、しっとりとした肌をまさぐる。 膝を割り入れて、脚を開かせる。荒々しい動きにも彼女は従順だった。 もっとぬくもりが欲しくて、真澄は焦れる気持ちのまま彼女の下着を下ろし、自らも腰から下の衣服をすべて脱ぎ捨てた。そして、まだ潤いも充分でない彼女の中心部に向かって、硬く屹立した自身を性急に突き立てた。 「あっああ…っ!いっ、痛い…っ!…やめてっ!!」 渇いた悲鳴が闇を切り裂いた。マヤは強引に押し入って来た異物感に、身体が拒否反応を示しているのが解った。先端だけを受け入れたまま、固く道を閉ざしたその場所からひりつくような痛みが波状に襲い掛かる。圧し掛かる男の身体を、マヤは思わず両腕で押し戻した。 「マヤ…」 そっと名を呼ばれ、マヤははっとする。狼狽えながらも微笑を強張る顔に戻して、何とか甘えた声を出した。 「だ、大丈夫ですから。続けて…」 「舞台に立たなくなって、きみは演技もまともに出来なくなったのか?」 突き放すような言葉に、冷や水を浴びせられたように動けなくなった。真澄の首に絡めようとした腕から力が脱けて、乱れた夜具の上に置物のようにどさりと落ちた。 恐る恐る視線を合わせれば、真澄が眉根に深い皺を刻んでマヤを見ていた。彼女の痴態のすべてを。彼はまんまと謀(たばか)られていたことに気づいたようだ。 思えば彼女ははじめから、いつもと様子が違っていた。貼り付けたような微笑。あれは、この館に来る前までによく見た、彼女の仮面の表情だった。 マヤは企みが看破されたことを知って、羞恥と懺悔に嗚咽を漏らした。そして自由奔放に泣き濡れた。 己を守るための盾は、この館では必要なかった。感情のままに素直な気持ちをさらけだしたのは、舞台以外では久しぶりだった。彼の前では嘘が必要(いら)なかった。彼は何時だって、嘘偽りなく真っ直ぐに彼女に向かって来てくれたから。 「ごめんなさい、速水さん、ごめんなさい…。あたし、あなたに非道いことをしちゃった…」 「なぜ、こんな真似をした…?」 「…あたしには自分を納得させる為の、揺るぎない理由が必要だったんです。その為には、…あなたに抱かれるしかないと思ったの…」 彼には彼女の言っている意味がさっぱり解らなかった。彼女自身、きっと整理し切れていないのだろう。真澄は正しい答えが導きだされるよう、黙って先を促すしかなかった。 「…あなたに抱かれて、嘘を真実(ほんとう)にしてしまいたかった。身体だけでも野獣の妻となれば、死んだものと家族も諦めがつく。あたしも家に帰らない理由と明白な言い訳が出来る。だから…あたしは『もう一人のあたし』を演じることにしたんです」 「…それは、どういうことだ…?」 「…捨てたはずだったの。家族なんて、薄っぺらな愛情だけで構成されているから、簡単に壊れちゃうの。だから、あたしはもう見ない振りをすることにしたの。でも、帰りたいなんて、今更なんであたしは思ったの?お父様が病気で苦しんでいる姿を見て、今すぐ駆けつけたいなんて、会いに行きたいなんて、なんで、なんで思ったの?あたしは帰らないって決めたのに。あんな家族いらないって捨てたのに。 それに、あなたはあたしをここから出すつもりもない。だからせめて、諦める為の言い訳に、あなたに抱かれて何もかも滅茶苦茶にしてやろうと思ったの。あたしが結婚に同意しない限り、あなたはあたしを抱かない。でも、もしその約束を破れば何だかんだ難癖をつけて、結婚の話も突っぱねることが出来るかも知れない。 だけどあなたに抱かれるのに、いつものあたしではその勇気が持てなかった。ただ、これまで辛いことや嫌なことはいつだって微笑ってやり過ごしてきたの。微笑みはあたしが自分を守るための唯一の盾だから。仮面をかぶった『もう一人のあたし』になって、あなたに約束を破らせたかったんです…」 「つまり、きみは病気の父親の看病をしに家に帰りたいと言う訳か。それが出来ないから、自分を騙してでもおれに抱かれて、おれの所為にして、親の危篤にも帰らない無慈悲な娘であることの言い訳にしようとした訳か…」 「…はい…」 「ゲジゲジに噛まれたくらいに思って、その後、平然と踏み潰すことも厭わないというのか…?きみにとっておれは、それほど歯牙にもかけない存在でしかないのか?マヤ、本当にそうなのか?」 「そうです…。身体を汚されたって、心まではあなたのものにはなりはしないわ。だってあたしは、あなたをこれっぽっちも愛していないもの!あたしはただ利用したの。あなたの愛を利用しようとしたのよ…!」 破れかぶれに泣き散らして、マヤは途方に暮れるしかなかった。 ::: 前へ ::: もくじへ ::: 次へ ::: ![]() ■おしながきへ戻る |