3.
鼓動が跳ね上がる。
マヤは雨の檻に囚われたかのように、身動きが出来なかった。
すっかり濡れそぼってしまった足元のスニーカーは、かろうじてマヤに「冷たい」という感覚を与えていたが、本来の「歩く」という機能は失くしてしまったらしい。
近づきたいのか、逃げ出したいのかも分からないまま、地面に根が生えてしまったように動けない。マヤは戸惑いの正体に気づいていながらも、半信半疑の気持ちが強かった。
雨がけぶる中、車の後部座席から降りてきた人物のダークグレーの背広が、やけに鮮明にマヤの瞳に飛び込んでくる。すぐに開かれた紳士ものの大きな傘に遮られても、マヤは懸命に目を凝らした。
玄関の軒下に入って傘を閉じようと振り返ったとき、ようやくその人物は立ちすくむマヤに気がついた。一瞬だけ、視線が絡む。
再び傘を広げ、ゆっくりとマヤの元へ近づいて来る。それでもマヤは動けない。
傘と傘が触れ合いそうになったとき、待ち焦がれた優しい低い声が頭上から降り注ぐ。
「久しぶりだな。…マヤ」
「速水さん…!」
ーーほんもの、だ…。
久々に見る彼は以前より少し痩せていて、日頃の激務を思わせた。その果てに約束通り迎えに来てくれたのかと、マヤは想いが溢れて止まらない。
マヤはたまらず抱きついてしまいたい衝動を抑え、ぎゅっと傘の柄を握りしめた。泣き顔で再会したくはなかったのに、自然と涙が込み上げてくるのを止められず、それでもぎこちなく笑顔を作って、長身の彼を見上げた。
「あ…会いたかったです…。あたし…速水さんに、ずっと…!」
「…すまなかったな」
そう言った真澄の瞳に、一瞬謝罪とは違う種類の翳りが映ったのをみとめて、マヤはまだ約束が叶うときではないことを知った。
風船がしぼんでいくように、急速に心が萎えていく。
「今日は稽古が早く終わったんだな。どうやら入れ違いになったらしい。きみに話があるんだが、よければこれから食事でもどうだ…?」
久々に会ったというのに、当たり前に話を進める真澄にマヤは混乱する。
ーー…話ってなに?迎えに来てくれたんじゃないなら、一体…。
悪い想像ばかりが目まぐるしく現れ出ては消えて行く。見えない傷がいくつも増えていくのを自覚しながらも、マヤは何とか返事をした。
「あ…ごめんなさい。あたし、麗の代わりに夕飯つくらなきゃならなくて…。今日…少し遅くなるっていうから…」
おどおどと視線をそらすマヤの手に、スーパーの名前が印字されたビニル袋の荷物があるのを見て、真澄はしばし思案する。
「そうか…。なら、仕方ないな。しかし話だけでも出来たらよかったんだが…」
「あっあの!」
遠慮して帰ろうとする気配を察して、マヤは咄嗟に声をかけた。
ーーせっかく会えたのに!!
「よかったら、う、うちで召し上がって行きませんか!?カレーだから人数増えても平気だし…。そうしたらお話もきけるし…」
そこまで言ってハッとする。
「あ…ごめんなさい。きっと速水さんのお口には合いませんよね。市販のルーを使ったただのカレーだし…。すみません、今のなしです!お話は明日にでも大都芸能のほうに」
「いいのか?」
「は?」
「きみがご馳走してくれるというなら、ありがたくそうさせて貰うが」
「えええっ!!ほ、本気で言ってます?」
「きみが誘ってくれたんだろう?」
「はい…。そうでしたね。そそそれじゃ、どうぞ…」
「持とう」
しどろもどろになっているマヤの手から荷物を受け取ると、真澄は先へ促すように道を開けた。ぎくしゃくと通り過ぎるマヤを見て、真澄は目を細めると後に続いた。途中、車の運転席の窓をノックし、待っていた運転手に告げる。
「きみはもう戻っていい。帰りは速水の車を呼ぶから」
その声を背中で聞きながら、マヤは今更ながらに自分の言動に呆れ返る。
ーーよく考えもせず、つい口にしちゃったけど…。速水さんを部屋に上げるって…。麗も留守だし、つまり、ふ、ふたりっきり…。
ちらり、と真澄を振り返ってみれば、見慣れたポーカーフェイスと目が合った。
「何だ?どうかしたのか?」
「いっいいえ!何でもありませんっ!」
慌てて真っ赤になって答えるマヤを、真澄は明るく笑い飛ばした。
ーードキドキしているのは、あたしだけなのね…。速水さんは…相変わらず…。
共同玄関で靴を脱ぎ、階段を上った二階の一番奥がマヤたちの住む部屋だ。個室のドアを入ってすぐが板の間の台所、玉のれんをくぐったその奥に六畳一間の和室が続くだけの、こじんまりとした住まいだった。
マヤは鍵を開けて真澄に入室を促した。途端に蒸し暑い空気が体を包む。マヤは照明を点けると、奥にある唯一の窓を雨が吹き込まない程度に少し開けた。
「どうぞ…。あまり片付いてませんけど」
昭和の匂いがぷんぷんの住まいに、今日も質のいいスーツを着こなした真澄は明らかに浮いている。そんなことをぼんやりとマヤは思いながら、また自ら傷を負う。
「ここでいいか」
「あ、ありがとうございました」
台所のシンク台の上にスーパーの袋を置いた真澄に頭を下げると、すっかり雨に濡れて体に貼りつく衣服を見やって、マヤは遠慮がちに申し出た。
「速水さん、すみません。あたし着替えさせて貰ってもいいですか」
「ああ、じゃあしばらく外で待っている」
恐縮するマヤに、気にするなと笑いかけ、真澄は廊下に出た。
壁に背中をもたせると緊張感が一気に解かれて、思考が口から零れ落ちる。
「前にもこんなことがあったな…」
あれは梅の谷でみた長くて短い夢。雨宿りに身を寄せた古い社務所で、寒さに震える彼女を抱いて、まんじりともせず朝を迎えた。
あのとき程ではないにしろ、同じように次第に激しさを増す雨に、交わした言葉や感情がまざまざと思い起こされて、胸を刺激する。
それにしても、先程のマヤはどうだ。
久々に会えた喜びを全面に押し出した、とびきりの笑顔。かつての二人の関係ではまったくあり得なかった反応だ。思わず罪悪感が先に立って口をついた言葉が「すまない」だった。本当はもっと違う言葉を考えていたはずなのに。
会わない間に少し大人びて、どこか憂いを帯びた彼女は、もはや真澄の知っている「チビちゃん」ではなく、一人の魅力的な女性であり、傍に居るだけで彼を落ち着かない気分にさせた。
「…きれいになったな」
こんなことさえ面と向かって言ってやれない自分に嫌気が差し、ため息が漏れる。水城の冷たい視線が思い出されて、内省を強めた。
その時、ドアがそっと開いてマヤが顔を出した。
「あの…お待たせしました。その…、ありがとうございました」
着替えを済ませたマヤは、パフスリーブのTシャツに膝丈のタイトなデニムスカートという出で立ちだった。真澄を再び部屋の中に招じ入れ、丁寧過ぎるほど礼を繰り返す。
「本当にありがとうございました。あたしったらせっかくのお客様をお待たせして、ダメですね。でも全身濡れちゃってたから、助かりました」
「きみはしょっちゅう雨に濡れてるな。今度大きめの傘でもプレゼントしようか」
「あたしにはお気に入りの苺の傘があるから結構です!それより、速水さんも少し濡れちゃってますよね。これ使って下さい。背広もかけておいたほうが乾くかな」
タオルを渡され、ハンガーを手にしたマヤが真澄の後ろに回り、脱ぐのを手伝おうと待っている。それがどういう行動であるのかマヤは気づいていないのか、返事も出来ずにいる真澄にも無関心だ。
狼狽を表に出さぬよう真澄は素早く背広を脱ぐと、「いや、自分でやるよ」と早口に言って、マヤの手からハンガーを受け取り窓際のカーテンレールに吊るした。
ーーまったく、おれも過剰反応し過ぎだな。
「それじゃ、速水さんのお話をどうぞ」
和室の真ん中にある折り畳みテーブルに、マヤは麦茶の入ったグラスを置き、真澄に奥の座布団をすすめ、自分はその向かいに座った。
部屋に入ったのは、かつて月影千草に「紅天女」の上演権譲渡を迫りに訪れた以来であった。女性二人住まいらしい可愛らしさや清潔感が窺えたが、ささやかで慎ましい暮らしぶりは以前とあまり変わりなさそうだった。
箪笥の上の何も生けられていない大振りの花瓶が目に留まり、真澄の胸は言い知れぬ痛みを覚えた。
「あの、速水さん?」
マヤが小首を傾げる。
真澄は何と切り出そうか迷ったが、取り敢えず得意分野の話題で気持ちを落ち着かせようと考えた。
「あ、いや。時に遅くなったが『紅天女』の継承おめでとう。試演も本公演も観たよ。素晴らしい舞台だった。…何と言えばいいんだろうな、魂が揺さぶられるような…あんな感覚は初めてだった…。もっと早くきみにこの感動を伝えたかったが色々あって…こんなにも遅くなってしまった。すまなかったな…」
そう言ってマヤを見つめる瞳が殊の外優しく穏やかで、マヤは強張っていた気持ちがゆるゆると氷解していくのを感じた。
「い、いいえ…。いいえ、速水さん…!あたし…観てもらえただけで、今こうやって伝えてもらっただけで十分です…」
「きみは長いこと思い描いていた夢を現実のものにしたんだな。本当によかったな、マヤ」
「ありがとうございます…。速水さんにそう言ってもらえる日が来るなんて、それこそ夢みたい」
言外に面白がる気配を含ませて、マヤが小さく笑った。そっと窺うように真澄の目を覗き込むと、
「だってあんなに上演権に固執してたのに。必ず大都が手に入れるとか何とか言って。いいんですか?このままあたしが持ってても」
「そのことなんだが…。今後どうするつもりだ?もしきみが大都に戻って来てもいいと言うなら、喜んで迎えるが」
「あたしを大都に?」
マヤには意外な話だったらしく、素っ頓狂な声をあげた。
「元々きみが継承したなら直ぐ契約を結びに行こうと思っていた。他の事務所に先手を打たれないうちにな。おれたちは犬猿の仲として有名だから、抜け駆けするのも容易いと思っていたはずだ。だがきみは本公演会場を、予定されていた新大都劇場であっさり了承してしまった。これには我が大都ときみとで、既に密約が交わされていたものとみなされたらしい。きみが未だフリーでいたのはラッキーだったよ」
「だって、今更突っぱねる気なんてないですから。あたしはもう昔のことは蒸し返したりしない。大人になるって決めたから…」
マヤは思い詰めたような眼差しで、膝の上の固く握った両の拳に視線を落とした。
真澄は出遅れた理由について明言を避けたが、マヤは察しているのか言及して来ない。
彼女は確かに大人になろうと努めていた。あの日の約束は、二人の中で強く息づいていることが明らかになり、真澄は愛しさが溢れてくるのを感じた。
「…ありがとう。それなら尚更おれのところに来てくれ。今度こそきみを上演権ごと守ってやる…!言っておくが、きみから上演権を取り上げるような真似はしない。おれもいつまでも昔のままじゃない」
「ちゃんとわかってます」
そう言ってはにかむマヤの素直さがこそばゆくて、真澄は照れ隠しについ軽口を叩く。
「きみが一人で今後管理していくのは心配だからな。今も権利書自体は全日本演劇協会の貸金庫に保管されているんだろう?契約が済んだら大都の取引銀行の貸金庫に移動させてもらう。きみに預けておいたら、引き出しの裏とか冷蔵庫の奥とか、とんでもない場所に隠しそうだからな。それにセキュリティー云々の前に、権利書を失くしかねない」
「なっっ…!!そんなところに隠すわけないじゃないですか!大事なものだってわかってるから、理事長さんにお願いしたんだし…。もー!またあたしのこと馬鹿にしてっ!」
「ははは、冗談だよ。天女様を怒らせると、あとで神罰が下りそうだからな。きみをからかうのはこれ位にしておこう」
「速水さん、あたしをおちょくって楽しんでいるでしょう」
「おれの唯一の趣味みたいなものだ。きっとこの先ずっと変わらないよ」
飄々と言ってのける真澄に、マヤはもう何も言えず、口を尖らせて目をそらした。
「じゃあ、仮契約成立ということでいいな。正式な書類は追って水城くんに届けさせる」
「はい…」
「今でこそきみのスケジュールは『紅天女』一色だが、今後は勿論、ほかの舞台やテレビの仕事のオファーがじゃんじゃん入ってくる。それらのプロデュースも任せてくれるな」
「わかりました。じゃんじゃん働かせていただきます」
「ははは、その言葉を忘れるなよ」
和やかな雰囲気に、マヤは心に巣食っていたわだかまりの存在を忘れた。そのようなものははじめから無かったのだ、と思い込もうとする。だが、ほんの爪先ほどのわずかな隙間が、満たされないと主張している。マヤにはそれが何なのか、輪郭がぼやけて判然としなかった。
幾分温くなった麦茶を口にした真澄が、ふと思い出したようにマヤに尋ねた。
「ところで、カレーライスは作らなくていいのか?」
「あーー!!忘れてた!ごめんなさい、すぐ作りますね!」
慌てて立ち上がり、台所に駆け込んだマヤは、壁に掛けてあったエプロンをとって身に纏った。後ろ手に紐を結ぼうとするが、焦って悪戦苦闘しているマヤに、真澄はまたからかうように声をかける。
「今からで青木くんの帰宅に間に合うのか?おれも手伝ったほうがいいんじゃないのか?」
「や…!いいです、いいです!速水さんは座ってて下さい!」
「だいたいきみは料理が出来るのか?」
「まっまた馬鹿にして…!だてに女二人暮らしをただ続けてたわけじゃありませんよっ。確かに麗に作ってもらうことのほうが多いけど…、あたしだって簡単なものなら…」
だんだんと語尾がすぼまっていくのが可笑しくて、可愛くて、真澄は込み上げる笑いが止まらない。
「それじゃあ、お手並み拝見といこうか」
「任せて下さい!」
「この後の予定はないから、いくらでも待つよ」
「待たせません!」
マヤは大袈裟に胸を張って見せ、調理に取り掛かった。今夜の献立がカレーでよかった、と心底安堵しながら…。
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