4.
野菜を切る。肉と一緒に炒める。水を加えて煮込む。ルーを溶かして、さらに煮込む。
たったこれだけの手順。料理の基礎を押さえた、初心者向けの簡単な行程のはずなのに。
…なぜ、こんなに時間がかかるのだろう?
マヤは大口を叩いた手前、なるべく手際よく進めようと努めた。だがその焦りが仇となったのか、背中に刺さる真澄の無言のプレッシャーのせいなのかはわからないが、随分時間を食ってしまっているのは事実だった。筋違いとわかっていながら、時計の針の無慈悲を呪った。
サラダ用のきゅうりを刻みながら、マヤは真澄に気づかれないように、小さく息を吐く。
調理に集中させるためなのか、真澄は一切話しかけてこない。自分には有り余るほど聞きたいことがあったが、手許が疎かになるのを恐れて黙らざるを得なかった。
ただ、沈黙の時間だけが流れていく。
自分の部屋に居るというのに、何という居心地の悪さなのだろう。早く麗に帰ってきて欲しいような、そうでないような複雑な気持ちを持て余す。
マヤはコンロの火を弱火に調節すると、首筋にはりついた髪を掻き上げた。
次々に額に浮かぶ汗のように、またしても振り切ったはずの疑念が生まれる。真澄が突然訪ねて来た目的は、先程の契約絡みの話のためだけなのだろうか。
二人には向き合わなければならない話があるはずなのに…。
自分から切り出してもいいものか、マヤは考えあぐねている。最も知りたい答えは、同時に知りたくもない現実かも知れないからだ。
「考え事をしていると、指を切るぞ」
「きゃあっ!!」
余りにも近くで声がしたため、マヤは驚き飛び上がった。勢いよく振り返ると、すぐ後ろで和室との境の壁に手をついて、肩を震わせて笑いをこらえている真澄がいた。手で押さえた口元からくぐもった笑い声が漏れている。
冷房などない部屋の中は蒸し暑いせいか、彼のシャツの袖は肘まで捲り上げられ、ネクタイは外されていた。寛がれた襟元から鎖骨が覗いていて、マヤは思いがけずドキリとさせられた。
「は、速水さんっ!急に声かけないで下さい!びびびっくりしたじゃないですかっ」
「くくく、まさかそこまで驚くとは思わなかった。飛び上がる、という表現通りの反応をする人間を実際見たのは初めてだよ」
「もー!誰のせいですか、誰の!相変わらずイヤミですね!」
拳を振り上げて猛然と抗議するマヤをいなすように、笑みを含んだまま真澄はポンポンと頭に手を置いた。その行為はどこか懐かしく、マヤの胸をときめかせたが、子供に対する戯れ事だと切なくも思うのだった。
「どうなんだ、進行状況は」
「あ…お腹空きましたよね。すみません、もう少しで出来上がりです。ただのカレーなのにお待たせしてごめんなさい…」
もう少し頑張らないと、という言葉はのみこんで、チラリと真澄を見やる。いつかまた手料理を振る舞う日を思い描くことさえ、身の程知らずだと気持ちが沈んだ。
そんなマヤの機微に気づくわけもなく、真澄はシンクにカレールーのパッケージを見つけて、
「きみはやはりカレーも甘党なんだな」と、また声をあげて笑っている。彼がマヤのことで無闇に笑うのは常のことだったが、その当たり前が二人の間の距離に変化などない、と突き放しているようで、マヤはいよいよ堪らなくなった。慌ててシンクに向き直ると真澄に背を向け、顔を隠した。
「速水さん…。あたし、今年でいくつになったか知っていますか?」
声が震えないよう、必死に心を押し殺す。演技では簡単なことが、なぜか今はひどく難しい。
「あなたと出会って、もう8年です。中学生だったあたしも、年齢だけみれば、れっきとした大人です。これまで色々あって…演劇ばかりの毎日だったけど、後悔なんてしてないの。でもやっぱり世間知らずで…こういうとき、なんて言ったらいいかわからないけど…」
ようやく真澄はマヤの様子がおかしいのに気づく。声をかけようとするが、続くマヤの声がそれを遮った。
「あたし、会えなくても紫のバラが届かなくても平気な振りしてきました。でも、この頃紅天女を演じる度辛くなるんです…!あたしの魂の片割れは、同じ想いをしているのか分からないから…。会いたくて会いたくて…、ひさ…久しぶりに会えて、あたしは嬉しくて戸惑っているのに、速水さんは相変わらずイジワルな仕事虫だし。あたしは結局一人でドキドキして思い悩んで、待つことしか出来なくて。おまけに満足に料理もできないしっ…。呆れられても仕方ないんです。約束通りの大人には、なれてないから。そんなだから、やっぱり、あたしはずっとチビちゃんのままなんだなって…思う…んでつ」
最後の言葉は鼻を啜る音と重なった。押さえきれなかった涙を手の甲で拭い、思わず愚痴のような、恨み言のような心情を吐露してしまったことに自己嫌悪する。
「ごめんなさい…。言ってる意味、わかりませんよね」
「…泣いてるのか」
「泣いてません!これは玉ねぎが目にしみただけです!」
マヤは苦しい言い訳を武器にして、せめてもの虚勢を張った。しかし、素直に認めれば真澄の胸に縋ることも叶うのだろうか、と心は矛盾して葛藤していた。
そして、マヤの心の裡を見透かしたかのように、真澄の長い腕が背後からそっと彼女を抱きすくめた。
俯くマヤの視線の先に、筋張った真澄の腕が交差する。肩にはしっかりと抱く大きな掌の温もりを感じた。背中に押し付けられた厚い胸板からは、真澄の確かな鼓動が直に伝わってきて、マヤの心臓は早鐘を打つほどに苦しい。髪にかかる彼の吐息。マヤは何か言葉を探すが、正しく呼吸をすることで精一杯だった。
静かに、真澄が告解を始める。
「おれは…おれこそきみに、正面切って真実を告げられない情けない男だ。きみが自分を卑下する必要なんて、これっぽっちもない。いつだってきみは真摯に気持ちをぶつけてくるのに、おれはきみから奪うばかりで、何ひとつ確かなものを与えられた試しがない。それでも…、きみが待っていてくれると信じていたからこそ、おれは今日まで一心不乱で来られた」
真澄は腕の中に閉じ込めたマヤを今一度強く抱き締めると、肩を優しく掴んで自らのほうへ向き直らせた。
「…きみに伝えたいことがある」
まなじりに涙を溜めて俯いたままのマヤの、真っ赤に染まった頬に片手を添えて顔を上げさせ、体を屈めて視線を合わせた。
「ーー婚約は破談になったよ。待たせて…すまなかった」
マヤはたちまち涙を溢れさせ、だがしっかりと真澄の瞳を見つめ返した。
「は…やみ、さん…!」
「これほど遠回りになったのも、きみを思い悩ませてしまったのもすべてはおれのせいだ。…正直、すべての問題が落ち着くまでには、もうしばらく時間がかかる。この上まだきみを待たせるのは本意ではないが…許して欲しい…」
次々と零れ落ちる涙を親指の腹で拭ってやると、マヤは気丈に微笑んだ。
「謝らないで下さい…。速水さんがあたしにしてくれることの大変さとか意味なんて、あたしなんかが想像してもきっととても追いつかない。だからあたしはせめて、あたしの出来ることをします。あなたを…信じて待っています」
「マヤ…!」
真澄は思わずマヤを強く胸に掻き抱いた。
ーーきみがおれへの想いを語るだけで、こんなにもおれは自分が抑えられなくなる…。こんな想いは初めてだ…!
広い胸に抱きとめられ、真澄の体温と鼓動を感じていると、マヤは赤子のように安心しきって、いつしか涙も乾いていた。
真澄は胸にしな垂れかかる心地よいマヤの重みに、想いが通じ合った歓びが、いよいよ実感を伴って体の奥底から湧き上がるのを感じた。
しばらくお互いを労わるように、何も言わず抱きしめあっていた。そうして、このひとときを夢中で噛みしめるのだった。
やがて、ポツリとマヤが呟く。
「…雨、今日は降ったり止んだりだったけど…。なかなか止みませんね…」
「ああ…。きみと会うときは雨が降ってることが多い気がするな…」
「…それって、あたしが雨女だとでも言いたいんですか?」
「そうは言ってないだろう。ただ単に確率の話をしている」
「でもそうしたら、同時に速水さんが雨男ってことも考えられますよね?」
「だからきみは何故そう突っかかってくる?そういうところが…」
「チビちゃんだって言いたいんでしょ」と、早くもマヤが唇を尖らせて拗ねはじめるのへ、したり顔で真澄が言い返す。
「いや、可愛い、と言いたかったんだが?」
「〜〜〜〜!!…速水さん、ズルいです!」
目を三角にしてマヤが勢いよく顔を上げた。お馴染みの膨れっ面を見下ろして、真澄は失っていた余裕を取り戻した。
「何がだ?」
「あんまりあたしを甘やかさないで下さい。…慣れてませんからっ!」
「クックク…。はやく慣れるよう努力してくれ。きっとこれからはもっと率直な気持ちを口にしてしまいそうだから。それとも、イジワルなおれのほうがいいか?」
「うーん、そのほうが速水さんらしいかも…」
「こら。この口はまだそんなことを言うか」
言いながら、きゅ、とマヤの突き出た下唇を摘まむ。妙に赤いその器官の弾力にクラリとして、真澄はいたずらに触れたことをたちまちに後悔し始める。
同時にマヤの様子を窺えば、瞳が戸惑いと羞恥で揺れている。真澄の内心の動揺を感じ取ったのか、マヤは探るような上目遣いをして、微かに身動ぎをした。
反射的に抱く腕に力がこもると、マヤはますます身体を硬直させた。
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