5.


さあさあと降りしきる雨がこだまする。トタンの屋根を叩く水音。くつくつと煮えたぎるカレーの鍋。まるで全身が耳になったかのように、実に様々な音が真澄の耳に届くのに、何と静寂なことかと彼は思った。
腕の中にいる愛しい存在は、動きも言葉も忘れてしまったかのように、ただ囚われて、その身を委ねている。黒目勝ちの大きな目だけが、真っ直ぐに彼の瞳を射抜いていた。
真澄はマヤの唇を摘まんでいた指をそっと緩め、そのかたちのよい輪郭をゆっくりとなぞった。すると彼女の弛緩した口元から濡れた吐息が微かに零れて、真澄の指先に甘い衝撃が走る。
お互いが何をどう思っているのか、何ひとつ確かめることもしないまま、ただ拭い難い予感だけが二人を捉えて離そうとしない。
見つめあった二人は抗う術もなく、惹きつけられていくーー。
ーーもう、だめだ。
真澄が観念して瞼を閉じる瞬間、マヤが同じようにするのが見えた。
ほんの、触れたか触れぬか分からぬほどの、刹那の口づけだった。ゆっくりと目をあけると、マヤは決して視線を外さぬまま、離れてもなお余韻の残る唇に、震える指先をそっと添えていた。まるで現実がそこに存在しているのかを、確かめるように。
他愛もないその仕草が、真澄の中の劣情を呼び覚ました。かつて二人で過ごした雨の夜が、梅の香をまとって脳裏をよぎる。あの匂いを彼女も知っているという事実が、その想いに拍車をかけた。
「…こうしていると、梅の谷で雨宿りをしたことを思い出さないか?」
知らず口をついて飛び出した己の言葉に、真澄は驚き、大胆になる。そして、さらに試すように耳元で囁いた。
「もしあのとき、互いの気持ちを知っていたらどうなっていたと思う?」
マヤが息を呑むのがわかった。真澄は答えを聞く気などない。体を傾斜させ、足をもつれさせながら、ゆっくりとマヤに覆い被さっていく。玉のれんが大きく揺れて、耳障りな音を奏でた。
畳の上に押し倒されても、彼女は目を見開いて一言も発せずにいる。だが見上げる瞳に今夜は恐怖の色がないのを見て、真澄は積年の想いを解放させた。
先程マヤがしていたように、彼女の唇を指先でなぞると、再びそっと重ね合わせる。湿った音をたてながら、何度も角度を変えてついばむように口づけを交わした。
手が、指が、意思をもって彷徨い始める。乱れて広がる黒髪を掬い、薄く汗ばむ首筋に張りつくのを丁寧に取り払うと、ようやく露出したその場所にも唇を寄せた。首をすくませ、そうしてやっとマヤは喘ぐように声を漏らした。
「…は…ぁっ」
あらゆる輪郭や曲線に沿って撫でさするように往復させると、両の掌に感じるしなやかさと瑞々しさが脳髄を刺激する。もう止められないーー…。
マヤが固く閉ざしていた腿をもどかしげに擦り合わせたのと同時に、右手をスカートの奥へすべりこませる。するとそれまで従順だったマヤが俄かに焦り始め、膝と両手を動員させてそれ以上の侵入を阻もうとした。
しっとりとした柔らかな肉感による甘い拘束を愉しみながら、真澄はやんわりとマヤをたしなめる。
「マヤ…」
名前を呼ばれただけなのに、マヤは全身に電流が走ったかのようにぶるりと打ち震えた。
ーー速水さん…!
すべてを委ねてしまおうとする自分と、未知なる領域に足踏みする自分とがせめぎ合う。伊豆の別荘への招待を受けた時点で、こうなることへの予感と覚悟は、すでに多少なりとも胸にあった。いまさら処女然と振る舞うつもりはなかったが、「官能」の意味さえ知らない乙女は早々に白旗を挙げそうになる。
タイトスカートの中に伸びる手を必死に押さえつけながらも、蠢くことを止めない指先にあられもない期待が集中していくのを、マヤは信じ難い思いで否定していた。
ーーあたし…!どうしたら…!
真澄のもう一方の手は、肩にかかるエプロンの紐をずらし、背中へ続く小道を辿るように先へ追いかける。まろやかな丘を下りて肩甲骨の隆起を巡り、背骨の峰を爪の先で滑り下りる。マヤは途切れがちに、か細い声をあげ続けた。
僅かな動きにも反応するマヤはこの上なく扇情的で、真澄は自身が一気に昂ぶっていくのを頭の片隅で感じていた。
真澄はマヤの腰を浮かせ、そこにぶら下がる緩んだ結び目を解いた。その衣擦れの音が淫靡に響いて、マヤをますます追い詰める。
ーー速水さん、速水さん、速水さん…!!
耳元や襟ぐりから除く鎖骨の上で、低く掠れた声が口づけの儀式と共に、何度もマヤの名を呪文のように呟く。得体の知れない見えない力が、マヤの快楽への扉を強引に押し開いていくように思えた。
真澄の左手がマヤの胸のふくらみを包みこむと、傍目からも分かるほどに体が跳ね上がった。
「…ああっ!」
思わず嬌声が上がり、その声に自身で驚いて慌てて口を両手で塞ぐと、つい膝の力も緩んでしまう。なけなしの防壁が次々と決壊していくと、真澄の右手は容易く侵入を再開した。だがその動きに性急さはなく、弾力や手触りを確かめるようにゆったりと大きく撫で上げた。
マヤは真澄が自分の子供染みた抵抗など、いつでも破れたのだとおぼろげに悟った。
あえてそうしなかったのは、きっと、彼の優しさとその根底にある躊躇だ。今だとて強引なことは何ひとつせず、やわやわと様子を探るような愛撫だった。
マヤは改めて、真澄が常に辛抱強く自分を待っていてくれたことを思い出し、包みこむような愛情の深さを感じずにはいられなかった。
速水さん…!あなたはいつだってあたしを信じて待っていてくれた…。演技が出来なくなったときも、あなただけは演劇の道に戻るまで、すぐ傍で導いてくれた。「紅天女」への挑戦権にひたすら向かっていたときも、影からあたしを支えてくれて…。そう、いつだって、あなたが…!

マヤは双眸から溢れる涙を拭うことなく、ただ流れるに任せていた。
「マヤ…?」
その様子に気づいた真澄が手の動きを止め、マヤの顔を覗きこんだ。切なげに眉根を寄せた真澄の、その想いに応えたくて、マヤは両手をおずおずと彼の背に這わせ、ぎゅ、としがみついた。
「…おれが怖いのか…?」
マヤは力なく首を左右に振った後、潤む瞳で真澄を見つめた。
「速水さ…ん。あたしが欲しいですか…?」
「な…」
「ねえ、欲しい?あたしはあなたが求めてくれるなら、幾らでもあたしをあげます。女優のあたしも、ただのあたしも、みんなあなたにあげる…!」
「言っている意味が分かっているのか…?」
「あたしはもう子供じゃ、ありません。ちゃんとわかってます…。子供扱い、しないで下さい…」
「子供相手にこんなことはしない…」
そう言って真澄はスカートの中に差し込んだままの右手を奥に伸ばし、下着越しにマヤの秘所に触れる。
「あっ…!」
マヤはやはり息を呑んで、直ぐ様膝を立てて身を縮こませた。
「…どうした。やはり怖くなったか?」
マヤは目をきつく瞑って、なおも首を振る。
真澄は指を中心の溝にぴたりと添わせた。その場所はすでにしっとりと湿り気を含んでいて、それだけで彼の欲望を煽るには十分だった。
「…きみがいいと言うなら、おれはこのままきみを奪うぞ」
「……」
「さっきの言葉を訂正するなら、今のうちだ。そうでないと…手遅れになる」
真澄は熱のこもった瞳でマヤを見つめた。秀でた額に汗が滲んで前髪が張りついている。こめかみに汗が伝うのも拭わず、彼は彼女の返事を待った。

部屋の中はますます湿度が高まり、マヤも真澄もじっとりと汗ばんでいた。触れ合った肌は熱を持ち、べたりと張りついて、まるで糊付けされたように動かなかった。
真澄は焦れた。8年もの間、彼は待ったのだ。今更、たかが数分数時間待つことなどやぶさかではないのに、マヤの逡巡は永遠に続くように思えて気が急いた。
指先に感じる生々しいほどのマヤの女の部分は、ただ触れているだけでも彼の理性を確実に侵食していく。たった一枚の薄布如きを引き裂くことなど容易く出来るはずなのに、這いつくばるように服従している自分自身の耽溺ぶりに苦笑がもれる。
ーー何てことだ、おれともあろうものが…!マヤ…おれを狂わせられるのは、お前だけだ…!
マヤは唇をきつく噛み締め、すっかり色褪せた畳のほうへ顔を背けている。所々毛羽立った目に、彼女の髪が絡んでいた。
膝をつき、片肘だけで支えていた体勢がきつくなり、真澄は体の位置を横へずらした。すると、意図せず真澄の昂ぶりがマヤの足に触れ、お互い驚き瞬時に顔を見合わせる。マヤが身を引こうとするのを両脇から足で挟んで固定し、真澄は少し口角を上げて笑うと、構わずそのまま強く押しつけた。
「や…」
マヤは初めて怯えた色を見せた。
「いいか、これが最後だ。おれはもう待たない。答えろ。きみには覚悟が出来たのか」
自分でも呆れるほど貪欲な欲求を隠しもせず、マヤがどこまで本気なのかを探る。
本当はこんな言葉ではなく、もっと相応しい言葉があるはずだ。「好きだ」。「愛している」。「抱きたい」。気恥かしくなるほど素直で単純な言葉ほど、おれの口を経由すると、味気ない歪んだ表現に変わってしまう。彼女は気性そのままに、真っ直ぐに愛を言葉に乗せると言うのに…!
思わず縋るような眼差しで彼女を見つめてしまったのかも知れない。マヤは真澄の頬に両手を添えると、幼子を諭すように、自身に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「…奪うとか、覚悟とか、そんな風に言わないで下さい…。ふたつに別れたものが、ひとつになる…。ただそれだけのことです。だから、あたしを…あたしをあなたに、戻して下さい…」
それを許しと捉えると、真澄は貪るように唇を奪った。舌を強引に割り入れ、歯列をなぞると、隙間をこじ開け口内に侵入する。マヤの舌を絡め取り、舐め上げ、きつく吸い上げると、
「んん…っ」とくぐもった声をあげた。
見えない枷を振り外したかのように、両の手は無遠慮に動き始める。左手は乳房をすくうように揉みしだき、右手は下着の隙間から指を差し入れようと果敢に試みる。
マヤの履いているタイトスカートのせいで、そこからはそれ以上の行為が出来ないのを潔く諦めると、今度はエプロンの前垂れ部分を捲り上げて、露わになったウエスト部分の金属製のボタンを外しにかかった。固く嵌め込まれたコイン状のボタンは、指先から嘲るように逃れて、なかなかに外れない。
二人の荒ぶる息が呼応する。
真澄は一呼吸おくと、愛撫の邪魔になる腕時計をようやく外した。
ゴトリと耳元で音がしたのを、何事かとマヤが目を向けると、真澄の腕時計の文字盤に、上気した自分の顔が小さく映り込んでいるのが見えた。
ーーあたし今、こんな顔してるんだ…。
こんな状況でなぜか冷静な自分に気づいて、可笑しくなった。マヤは首筋に顔を埋めた真澄の柔らかな髪を、何度も梳いては電灯の明かりに透かせて弄んだ。
ーー…?あたし何か大事なこと忘れてる…?
ふと、頭をよぎるものがあった。だがようやくボタンが解放され、そのまま真澄の手が下着の中に差し込まれると、ふって湧いた違和感は瞬く間に掻き消された。
「あ…やぁっ!ま、待って…!」
「もう待たないと言ったはずだ」
真澄はマヤの制止を聞かずに茂みを掻き分け、ぬかるみを目指す。唇を塞ぐように熱い舌が押し入ってきた。呼吸が出来なくなりそうなほどに、翻弄される。
その時、マヤはある事実を完全に思い出した。先程目にした真澄の腕時計の針は、間もなく8時を指そうとしていた。
ーーも、もうこんな時間!?ど、どうしよう…!!
マヤは、なりふり構わず渾身の力を込めて、真澄の体を押しやろうと躍起になった。
「だ、だめです、速水さん!や、やめて…!あ…っ!」
「おい、暴れるな。今更はい、そうですかとやめられるか」
「ちょ…!だめだったらだめなの!速水さん、時間が…!」
「時間など関係ないと言っただろう。少し黙れ」と、再び下りてきた真澄の唇を両手を重ねて防ぐと、マヤは白百合荘全体に響き渡るような大音声で叫んだ。
「だめーーー!!!もう麗が帰ってきちゃうのーーーっっ!!!」

数秒後、呆気に取られて固まっていた真澄は、小さく噴き出すと、体を折り曲げて盛大に笑い始めた。
「はは、はっはっは。マヤ、わかったよ。そうだったな、はは…。青木くんが帰って来たら、確かにまずいな」
そして笑いを引きずりながら体を起こすと、腕時計を拾い上げ、身繕いをした。窓際でハンガーにかけて置いた背広を羽織ると、外を見やりながら独り言のように呟く。
「いつの間にか、また小止みになっていたようだな…」
髪も衣服も乱れたまま、畳の上にようやく起き上がったマヤを振り返ると、「帰るよ」と一言告げる。マヤは慌てて立ち上がると、よろめきつつ真澄に駆け寄った。
「速水さん…」
不安げに見上げる瞳に穏やかに笑いかけ、髪を撫でて整えてやる。
「つづきはまた…な」
耳元に囁くと、マヤは顔中真っ赤に染め上げて口をパクパクさせた。真澄はその頬へ素早く唇を寄せると、マヤの横をすり抜け、
「すまなかったな」と言い置いて去って行った。


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