6.
大都芸能社長室には、今日も日課のように上の空で頬杖をつく真澄がいた。
静かな怒りをたたえた秘書の水城は、黙って執務机の上から数枚の決済書類を回収して、部屋を下がった。
秘書室へ戻り、自分の席に落ち着くと、苛立たしげに次の会議用の資料を整理し始める。
ーー何なの、あの代わり映えのなさは!昨日は久々にマヤちゃんと会って、想いの丈を伝えて来たんじゃないの?まさか振られたわけじゃあるまいし…。それとも暴走して何かやらかしたとか?まったく一体どうなってるのかしら。
水城は憮然としながらも、これからの算段を考える。昨夜、帰社した運転手からの報告を受け、何がしかの動きがあろうことは予見の範疇であったので、まずは確認のため、直接マヤに事情を聴こうと強硬手段を思いつく。今日から彼女は稽古休みに入ったはずだった。久々にランチにでも誘うのも悪くないと、水城は受話器に手を伸ばす。と、そこへ受付からの内線電話がかかって来た。
それは図らずもマヤの来訪を告げるものだったので、水城が渡りに船とほくそ笑んだのは、言うまでもない。彼女は真澄に伺いもたてずに、そのままマヤの面会を許可し、社長室まで来るよう伝えて貰った。そして鼻歌交じりに内線電話で社長室を呼び出した。
『何だ?』
「社長、申し訳ございません。一件、面会の約束があったのをお伝え忘れてました」
『ああ、急ぎの要件か?悪いが、先日の企画書の直しを持って担当者が来るはずだから、こっちを先に通してくれ。それで誰との約束だ?』
「北島マヤですわ。たった今受付を済ませて、こちらへ向かっているところです」
途端に受話器の向こうから、バサバサと書類をばら撒くような音が聞こえた。
「間もなくやって来ますわ。真澄さま、先に通して構いませんわよね?」
何か文句のような声が聞こえてきたのを無視して、水城はさっさと受話器を戻してしまった。
ーー久々の豆台風のお越しね。これは楽しみだわ。
水城は近くにいた課員にコーヒーと紅茶の用意を頼むと、自分はエレベーターホールへマヤの迎えに出向いた。ちょうどホールへ着いたのと同時に、エレベーターの扉が開いてマヤが現れた。
「水城さん!」
「マヤちゃん、お久しぶりね。今日はどうしたの?…あら、それは?」
にこやかにマヤと挨拶を交わした水城は、マヤの手に見覚えのある紳士ものの傘があるのに目を留めた。
「あ…昨日、速水さんが忘れていかれて…」
「忘れ物?あの方が?」
「これを渡すだけだから、受付に預けて帰ろうとも思ったんですけど…」
俯き、何故か恥かしげに目をそらしたマヤを見つめて、ますます水城は訝しく思う。やはり二人は昨日再会し、あの真澄が動揺するほどの出来事があったらしい、と水城は確信した。
「まぁいいじゃない、折角大都まで出向いて来たんだから、お会いして行きなさいよ。でも次の会議までの時間を当てただけだから、実はそんなに時間はないの。急ぎましょう」
先導して社長室へ促すと、数歩遅れてマヤがついて来る。兎にも角にも、これで白黒はっきりして貰い、調子の狂う毎日とは縁を切りたい水城であった。
「それにしても、大分年相応に見えてきたじゃない?かつての異名がどこ吹く風よ。『紅天女』を継承してから、いろいろと自覚するところがあったのかしら」
「あは。そう見えるんなら、あたしとしては嬉しいんですけど。ところで異名って?何かありましたっけ?」
「嫌ね。散々アポなしで押しかけて来てた頃は、豆台風なんてからかわれていたじゃない」
「あはは、そうでしたね。速水さんにはいっぱいイヤミな仇名つけられてましたね」
「それはあなただって負けてなかったじゃない。冷血仕事虫だのゲジゲジだの…」
「やだ、それは言わないで下さい。それにもうそんな風には呼ばないって、約束したんですから」
真っ赤になって弁明するマヤの言葉の端から、二人だけの秘密のやりとりが忍ばれて微笑ましく思う。
そういえば、と水城は思い当たり、それを自然と口にした。
「真澄さまも、近頃はあなたのことをチビちゃんとは呼ばないのね。マヤ、マヤって、聞いてるとこっちが照れ臭くなるくらい、優しい声で」と、水城は後ろからついて来るはずの足音が止まったことに気づいて振り返った。マヤは深く俯き、長い髪が顔にかかって表情さえ窺い知れない。傘を握る両手は、力を入れすぎて小刻みに震えていた。
「マヤちゃん?どうしたの、具合でも…」
「水城さんっ!ごめんなさい!!これ、速水さんに返しておいて下さい!あたしやっぱりここで失礼します!!」
マヤは傘を水城に押しつけると、ペコリと勢いよくお辞儀をし、脱兎の如く踵を返した。
自分がマヤを追うことに意味はないと即座に判断を下した水城は、そのまま駆け出し、ノックと同時に社長室へ飛び込んだ。
「真澄さま!!」
「な、何だ。マヤは来たのか?」
真澄はよく見てもいなかった書類を未決済箱に戻すと、直ちに腰を浮かせた。
「たった今、これを私に預けて本人は逃げるように帰ってしまいましたわ。理由は私にもさっぱりわかりません。何だか思い詰めた様子で…大丈夫でしょうか」
そう言ってマヤから預かった傘を真澄に渡した。きれいに乾燥され、折り目よく巻き留められたそれは、昨夜小止みのうちに辞去した際に、つい忘れて来てしまった紛れもない私物であった。
「…たった今、帰ったと言ったな」
「今ならまだ追いつくと思いますわ」
「少し出てきてもいいか」
「次の会議は20分後です」
水城の言葉に頷くと、真澄は傘を手にしたまま社長室を飛び出した。
社員の驚く顔を尻目に、一足飛びにエレベーターホールへと駆けつける。社長室のあるこの階は最上階だ。折よく先日の企画書の不備を、直々に担当者に電話で叱責してやったところだった。今頃さぞかし蒼冷めた顔で、大急ぎで手直しした企画書を抱えて社長室に向かっているに違いない。担当者の部署は5階だったはずだ。だから上手くいけば、マヤは一旦5階まで呼び出された箱を待って、ホールで足留めされているだろう。
真澄は僅かな希望を握りしめ、全速力で駆け抜ける。
エレベーターホールに辿り着くと、果たして真澄の思惑通り、マヤはそこに居た。
「マヤ!!」
真澄の声に振り向いたマヤは、幽鬼でも見たかのように一気に顔色を失うと、▽ボタンを猛然と連打し始めた。そこへ丁度到着を知らせるランプが点灯し、書類を抱えた担当者が降りて来た。入れ替わりに中へ飛び込んだマヤを追って、真澄も後に続く。真澄が鬼の形相で待ち構えていたのを目の当たりにして、すっかり震え上がってしまっている担当者に、「絶妙のタイミングだったよ」と謎の賛辞を与え、真澄は閉まりかけた扉の隙間へその身を滑り込ませた。
下降して行く狭い箱の中で、真澄とマヤは二人きりだった。
マヤはまさか真澄が追いかけて来るとは思わず、奥の壁際に張り付いて、ただ目を丸く見開いている。真澄は息を整えると、一歩一歩マヤににじり寄った。
「忘れ物を届けに来てくれたんだろう。なぜ会わずに帰ろうとした?」
「あ…いえ。お仕事の邪魔しちゃいけないと思って…」
「受付でアポイントは取りつけたはずだ。業務のうちなんだから、堂々と会いに来ればいい」
「だ、だって…。あたし、水城さんと話してて…思い出しちゃって…」
「?…何のことだ?おれにもわかるように言ってくれ」
「あ…あたしのこと、マヤって呼んでるって…」
そう言って、耳まで赤く染めて手で顔を覆ってしまったマヤを見て、真澄はますます訳がわからなくなる。
「きみがもうチビちゃんと呼ぶなと言ったんだろう。水城くんの前で今更マヤと呼ばれるのが恥ずかしいなら、これからはきみの前だけにするが」
「そ、そういうことではなくて…。あの…それであたし、昨夜のこと思い出しちゃって…」
「昨夜のこと…」
二人が同時に思い出したのは、言うまでもなく、未遂に終わった甘やかな秘め事。互いの息遣いから熱を帯びた肌の質感まで、ありありと蘇ってくるようだった。
そして気まずい沈黙を破るため、真澄はわざとらしく咳払いをすると、思わずつっけんどんな物言いになった。
「それは…その、昨夜は…すまなかったな」
「何で謝るんですか?」と、マヤがすかさず噛みついて来た。思わぬ反撃に真澄は後手に回る。
「何でって…。そ、それはせっかくのきみの手料理も食べずに帰ってしまったこととか…」
「だいたい速水さん、昨日から謝りすぎです!昔は謝り方など知らんなんて言ってたクセに。いつからそんなにしおらしくなったの!?」
「何だ、藪から棒に」
「あたしは約束したから勝手に待ってただけだし、あ…あなたにあたしをあげたかったから、あーゆーことになったわけだしっ」
「しかしきみは泣いていたじゃないか!」
「今までさんざん泣かしてきたって平然としてたじゃないですか!何で今更態度違うんですか!」
「人聞き悪いな、今までだって別に平然としていたわけじゃないぞ。だが、それは、アレだ。マヤ、その…」
真澄はおもむろに腕を組むと、マヤから顔を背けた。ちらりと垣間見えた頬が、心なしか朱に染まっていたようだった。マヤは追求するように真澄から目をそらさない。
「…好きな女に泣かれて、堪えない男など、どこにもいないだろう?」
それは不器用な男からの、精一杯の愛の告白だったのかもしれない。目も合わさず、下降して行くエレベーターの中という場所柄ではあったが、マヤは漣のように胸に広がっていくぬくもりが、漠然と自分が心から求めていたものだったと、ようやく知り得るに至った。
ーーあたし、ただ「好き」って言って欲しかっただけなんだ…。
いささか変化球ではあったが、紛れもない彼の本心からの言葉に、ぼやけていた輪郭の焦点が、やっと結びついたことが嬉しかった。マヤは屈託なく笑うと、真澄の背中に身を寄せた。
「あたしも好きな人とはいつも一緒に笑っていたいです」
「マヤ…」
真澄はすぐ傍にあるぬくもりが嬉しくて、愛しくて、そっとその肩に手を回して抱き寄せた。そのまま顎を引きあげて唇を重ねようとするが、マヤはするりとその腕から逃げ出した。
「こっ、ここをどこだと思ってるんですか!速水さんの職場でしょ!?」
「この中は密室だ。誰の目があると思ってる」
「だめです!監視カメラもあるし!それにホラ、着きましたよ!」
忌々しい音が鳴って、二人だけの空間が地上に降り立ったことを知らせる。マヤは早々に受付に会釈をして、正面玄関に一目散に歩いて行った。
「おい、おいて行くな」
「速水さん、この後会議なんでしょ?どうぞ戻って下さい。あたし、今日は傘を返しに来ただけだから、これで失礼しますっ」
マヤは赤い顔をして、後ろからついて来る真澄を振り返って言った。
「まだ時間はある。その辺まで送って行くよ」
真澄はマヤの言葉を無視して、長い足で彼女を追い越した。先に表へ出たところで顔に冷たい雫を感じ、空を振り仰ぐと、パラパラと幾つもの銀糸が放射状に落ちてきた。
「また降り出したな」
「でも駅までだし、これくらいなら傘ささなくても平気ですから」
「いや、さして行こう」
真澄は手に持っていた傘を広げ、マヤを伴って雑踏へと一歩踏み出した。
相合傘に初々しくはにかんで、マヤは真澄を見上げる。視線を合わせると、なお一層赤くなって微笑むマヤを見て、骨抜きにされていると、真澄は改めて思い知る。
「…また改めて、きみの手料理を振る舞ってくれるか?」
「〜〜〜カ、カカレーでいいならっ!」
マヤは裏返った声で必死に答えた。
「ああ、それでいい。だが今度は辛口も用意してくれ」
舗道の植え込みに、紫色の紫陽花が水滴を纏って生き生きと咲きこぼれているのが視界に入ると、真澄は決意を込めて小さく告げる。
「…紫のバラも…、次の公演には、きっと届くだろう」
「え?今、何て…」
マヤの問いかけには答えず、真澄は傘を傾け、往来から世界を遮断した。そしてゆっくりと、マヤに顔を近づける。
「この空間は、二人だけのものだ」
え、という呟きとともに唇を封じこめる。マヤも、もう逃げなかった。
雨が音もなく、二人を優しく包み込んだ。
終
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