Chapter7 『契約違反』



「…社長。」
地を這うように低く、冷たい水城の一声に、速水の肩が微かに反応する。
「たった今、顧問弁護士から回答が届きました。北島マヤがドラマを降板した場合に想定される賠償額の目安と、裁判になった場合の諸経費の見積もりです。」
「…そこに置いておいてくれ。」
「お忙しいようならば、読み上げさせて頂きましょうか?」
「いい、結構だ。」
こちらを一瞥もしない速水に、水城はこれ見よがしに溜息をつく。累々と計上された額面を見ると、更に深い溜息が漏れた。
「大変な損害額ですわね。」
「そうだろうな。」
「そして、降板によって損なわれる大都芸能の社会的信用と、北島マヤが被るイメージダウンの影響は、この金額には一切含まれておりません。」
「それこそ、計算できない額だろう。」
「いよいよ社長の代表取締役の座も危ういと、社内の専らの噂でございます。鷹宮グループとの提携解消の傷跡も、未だ癒えてはおりませんので。」
「なるほど、そうなるかもしれないな。」
まるで関心が無いかのような答えをする速水に、水城の語気も荒くなる。
「社長!!真面目にお考えください!」
「ああ、言われなくとも誰よりも真剣に考えている!だが、今はその具体的な数字など、見たくも聞きたくもないんだっ!!」
速水は耐え切れないとばかりに頭を掻きむしると、そっぽを向いてしまった。
 例の騒動が起きたのは一昨日の事。あの後、完全に頭に血が上った速水は、暴れるマヤを引きずるようにしてスタジオから連れ去り、今後一切現場に立ち入る事は罷りならぬ、とマヤ付きのマネージャーに厳しく言いつけた後、意気揚々と本社に戻った。しかし、そこからが本当の騒動が始まりだった。
主演女優がいなくなり、突如収録がストップしてしまった現場からは監督、テレビ局からは製作責任者、そして局の上層部役員が、事態収拾の為に続々と大都に詰めかける。開口一番、北島マヤのイメージを損なう著しい違約事項があった旨を速水が激しく抗議すると、担当者は平身低頭謝罪し、問題のシーンの撤回と、ドラマの撮影続行を願い出た。しかし速水は、最早このドラマに関わる意向は一切無い、契約はこちらから破棄させて頂くので謝罪は無用、と容赦なく言い捨てると、関係者達をさっさと追い返してしまった。社長室の中、一人になって冷静さを取り戻した速水が、自ら放った決定的な一言の重さにハッと気づいて青ざめた時には、後の祭だった。
大都側からの契約破棄という、経営トップが下した破天荒な決断に、社内は蜂の巣を突いた様な大騒ぎとなった。契約不履行の際の取り決めを交わした契約書の条項を確認する者や、今後のマスコミ対応、他のタレント達への影響を考えて頭を抱える者など、社内は大混乱を極めている。ドラマの現場では、全出演者とスタッフに対して箝口令が敷かれ、現在は取り敢えず主役の出演シーン以外を優先的に、撮影を続行しているという話だが、マスコミが嗅ぎつけて騒ぎになるのはもはや時間の問題だろう。
「書類から目を逸らしても、状況は一向に変わりませんわよ。寧ろ、刻一刻と事態は悪化しております。」
「…それも分かっている。いいからもう、放っておいてくれ…。」
常日頃から冷静沈着で計算高く、状況判断能力に長けた理想の経営者であると思っていた速水の、その子供染みた駄々っ子のような口振りと、遂にダンマリを決め込んだ情けない姿に、水城は冷ややかな白い目を向ける。これは相当な荒療治が必要だと、水城は心を固めた。
「今から、北島マヤを呼びます。」
ギョッと顔を見上げた速水に、水城は畳みかける。
「只今、本社の近くに待機させております。先程会ってきましたが、是非とも社長に面会して直接お伝えしたい事があるとの事です。マヤちゃんと、2人きりにして差し上げますわ。ごゆるりと、お2人の時間をお楽しみ下さい。」
水城はニコリと、不敵な笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!今は困る!」
「お黙りなさいませっ!!」
水城は、ピシャリと速水を一喝する。
「真澄様、今ご自分がなさるべき事をよーくお考え下さい。ご理解下さるまで、私にはお仕えする方はいないものと考えておりますので、秘書の仕事は一切ボイコットさせて頂きますわ。では、失礼。」
一瞥もくれずに退室する水城を引き留める術もなく、速水はその後ろ姿を呆然と見送った。

――チッチッチッチッチッチッチッチッ
どこかの企業から創立何十周年記念に贈られた大層立派な置時計の秒針が刻む、無慈悲なほど正確無比な機械音が社長室に響く。時計の音とは、これほどうるさく、煩わしいものだったろうか。ドクドクと早鐘を打つ自分の血潮のリズムと相まって、それは心を掻き乱すような、狂った不協和音を奏でている。
――コン、コン。
「社長、失礼致します。」
第二秘書が扉を開けて入って来ると、その後ろに伴われたマヤの姿がチラリと見えて、速水の心臓が更に激しい動悸を刻む。応接用のソファを促され、ツカツカとシフォンのフレアスカートを翻して足早に歩き、速水の対面に着席するマヤ。入れ替わって専務付きの秘書が、応接テーブルにコーヒーとミルクティーを置いて早々に退室する。
「………」
「………」
両者を包み込む、並々ならぬ緊迫感。これから始まる会話の糸口をどのようにして掴めばいいのか、再び狂気のメロディーが流れ始めた頭の中で、速水は途方に暮れる。
「契約違反、だと思うんです。」
「…え??」
会話の口火を切ったのは、マヤの方だった。しかし、余りにも意外な方向から切り出されたその会話の出発点に、速水は理解が追いつかない。
「ココ。契約書の、この部分。速水さん、読んでみて下さい。」
マヤは、鞄の中から取り出した書類をおもむろに広げて、その個所をちょんちょんと指差し、速水に示した。速水は混乱した頭で、とにかく言われた部分を目で追い、読み上げてみる。
「“…第二十四項。乙は、乙が出演する全ての芝居演目について、その出演に対する可否の権限を常に保有するものとし、甲は如何なる場合もそれを妨げてはならない。但し、乙が出演に対する可否を判じた時点で発生する実損は、乙にその責任があると認められる場合において、乙が全額を賠償するものとし、甲は乙に対しその支払を命じる事が出来る。…”」
「はい、そうです。ちなみに、“甲”は大都芸能事務所、“乙”は北島マヤですね。えーっと、難しいので簡単に言い替えちゃいますね。私、北島マヤは、お芝居に出るとか出ないとか、いつでも自分で決められますが、大都芸能は勝手に決められません。でも、私が出演するとかしないとか決めた事で損害が出ちゃう場合、私の責任としてそのお金は私が支払います。…という事で、間違いないですか?」
「ああ、間違いない。」
「あー良かったぁ。契約書って本当、堅苦しい言葉で書いてありますよねぇ。全部読み返すのに丸一日掛かっちゃいましたよ。」
マヤは安堵の表情を浮かべ、ソファの背もたれに体を委ねてほっと一息をつく。マヤが出した書類、それは一年前に大都芸能とマヤが交わした専属マネジメント契約書だった。マヤは笑顔を向けながら、意気揚々と言葉を続ける。
「で、契約違反だと思うんですよね。速水さんが私の了解を得ずに、勝手にドラマを降板させちゃうのって。」
「ああ、その通りだ。」
速水は、契約書の他のページをパラパラと捲って、内容を目で追っていく。
「どうしましょうか?速水さん。」
「………」
「速水さん?」
「……辞めたらいい。」
「ええっ?な、何をですか??」
「大都芸能を、辞めたらいい。」
「!!!」
「この第二十四項は、片方が違反をした場合、もう片方が一方的に契約解除を申し出る事が出来るという項目の中に該当している。つまり、君は今すぐ大都芸能を辞める事が出来るという事だ。…どうする、辞めるか?」



■前へ ■indexへ戻る ■次へ