Chapter8 『嫌い、大嫌い』



「…速水さん、それ、本気で言ってるんですか?」
「本気も何も、そういう契約内容だという話だ。これは十分に、君の正当性が認められる契約違反だと思う。いや、違反を犯した自分が言うのも何なんだが…。」
“その出演に対する可否の権限を常に保有する”
マヤが行使できる出演作品の決定権は、“可”だけではなく“否”も常に含まれているという事を、今日この時まで失念していた不覚に、速水は眩暈を覚えた。要するに、“出たい”だけでなく“辞めたい”も、マヤはいつの時点でも判断できて、大都にはそれを勝手に決めたり、止めたりする権限が無い。こんなザマでよくも、“俺には権利がある”などと、あの時豪語したものだ。速水は自分の愚かさを自嘲する。
「よく、この契約書に気が付いたな。水城君が教えてくれたのか?」
「あ…、気づいたのは私です。あの日、速水さんが“辞めさせる”と言った時に違和感があって、家に帰ってすぐ契約書を探して読み返してみたんです。でも結局、読んでみても自信が持てなくて、さっき水城さんに確認してもらったんですけど…。」
そういえば、ここに来る前に水城はマヤに会っていたと言っていたな。
「なるほど、そういう事だったのか。いや、凄い発見をしたな。これは裁判になっても100%勝てる、会心の一手だ。恐れ入ったよ。」
「私、そんなつもりで言ってるんじゃないんです!私はただ、ドラマを降板させないで欲しいって、そう言いたかっただけで…。」
「それでも、これはビジネスの場では決して許されないミスだ。どうやら俺は、経営者として取り返しのつかない失敗を犯してしまったらしい…。」
速水は天井を仰ぐと、一つ深い溜息をついた。
この件だけではない。片桐に対して気に食わない事は多々あったが、あの場は黙って受け流し、後からテレビ局を通じて幾らでもクレームは付けられたと、今更ながら思う。大都が裏から最大限に圧力をかければ、脚本自体を取り下げて、片桐を演出家から降板させる事だって出来ただろう。それをあのような大々的な騒ぎに発展させ、大都は多大な損失を被ろうとしている。そして、マヤに対しても大都を去る為の正当な理由を与えてしまった。…判断ミス、そう簡単には片付けられない致命的な失敗の数々。一つの企業を預かる最高責任者として、あるまじき大失態だ。
決して自分が望んで得た地位ではなかったが、養子という立場から成り上がり、誰よりも慎重に、誰よりも狡猾に、その責務を全うしてきたという自負があった。その自負が、今まで築き上げてきた業績が、実績が、その何もかもが、砂で出来た楼閣のように、もろく儚く、足元からサラサラと崩れ落ちていくような気がした。
速水は、ほとんど焦点が定まっていないような虚ろな眼差しで、マヤの契約書を静かに見つめた。
「俺の失敗によって、大都は多額の損害を抱え、そして君を失う。…俺は、社長失格だ。」
バッチ―――ン!!
「!!!」
速水は、自分の顔面を襲った突然の衝撃に、視界が真っ白に弾け飛んだ。ビリビリと痺れるような強烈な痛みを両頬に感じ、無数の星が瞼裏を乱れ飛ぶ情景をしばらく遣り過ごすと、目の前には、テーブルを挟んで速水の両頬に両手を伸ばし、こちらをキッと睨んでいるマヤの姿があった。どうやら俺は、両方の頬をマヤに同時に叩かれたらしい。速水は驚きの余り、しばし呆然となる。
「速水さんのばか!!バカ!!馬鹿!!」」
マヤはそのまま、速水の両頬をぐいぐいとつねり始めた。
「い、痛いッ!!マヤ、痛いぞっ!」
「契約書なんか見ないで!私の顔を、ちゃんと見て!!」
「???」
「私が、大都を辞めるなんて、いつ言ったんですか?ねぇ、いつ言ったの!?」
マヤは、速水の頬をつねる指に、更に力を加える。
「……マヤ。」


「許されないミスとか、取り返しのつかない失敗とか、いつ私がそんな言葉で速水さんを責めたの?私と速水さんの間には、ビジネスの関係しかないの?私達って、そんな薄っぺらで冷たい関係ですか?ねぇ、速水さんそうなの??」
「………」
みるみる内に、マヤの黒い大きな瞳に涙が溜まっていく。力いっぱい歯を食いしばり、瞬きもせず速水を睨みつけるその顔は、完全に怒りの形相そのものなのに、涙が止めどなく溢れては零れ、次々と頬を伝い、落ちていく。その壮絶なマヤの表情を、速水は身じろぎもせず、固唾を飲んで見つめる。
「…ねぇ、速水さん。間違った事を言ったと思ったら、言い直せばいいじゃないですか…。自分が悪かったと思ったら、謝ればいいじゃないですか…。許してくれるまで、頭を下げたらいいじゃないですか…。失敗したら、そこからもう一度やり直せばいいでしょう…?それって、そんなに難しい事なの?」
マヤの顔がグニャリと歪み、悲しみの感情が堰を切って溢れ出す。マヤはとうとう、子供のようにわんわんと声を上げて泣き始めた。
「………」
「自分の間違いを素直に認められないような速水さんなんて、嫌い。ちょっとぐらいの失敗で、自分は社長失格だなんて決め付けて、勝手に落ち込んで、ホント馬鹿みたい。そんな速水さんなんて、嫌い!大っ嫌いッ!!」

暫くして泣き止んだマヤは、速水の頬をつねっていた両手を離す。ゴシゴシと自分の両袖で涙を拭い、ゆっくりと深呼吸を繰り返し、息を整える。キュッと唇を引き結び、赤く泣き腫らした眼差しに生気の光を灯すと、マヤは契約書を抱きしめ、すっくと立ち上がった。
「帰ります。ドラマには出ます。…大都芸能を辞めるかどうか、考えさせて下さい。」
「マヤッ!!俺は、」
「言わないで!今は、何も聞きたくありません。もし私に謝ろうとしているのなら、その前に謝るべき人が、沢山いるんじゃないですか?」
「マヤ…」
「失礼します。」
マヤはそう言い残して、扉に向かって歩き出した。その後ろ姿を、速水は黙って見送る。どんどんと広がっていくマヤとの距離が、2人の決別を予感させた。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。俺は一体、何を間違えた?自分は生きながらにして、もう一度生まれ変わったのではなかったのか?ようやくマヤと向かい合える未来に辿り着いたのではなかったのか?それなのに、マヤとの関係は何一つ変わっていない。以前と同じように、2人の間は誤解ばかりで、俺はマヤを傷つけ、また遠ざかる。どんなにやり直しても、俺とマヤが交わる未来は永遠に訪れないという事なのか…?
「あ!」
扉に向かっていたマヤが小さく叫んで、契約書を床に落とした。何事かと驚く速水の目の前で、マヤは右の脇腹のあたりを両手で押さえながら、その場にうずくまろうとしていた。速水は驚きながらも、マヤの元に急いで駆け寄り、その体を必死で支えた。
「マ、マヤッ!?どうしたんだ!?」
「…っ、な、なんでもありません!」
そう答えるマヤだったが、酷く狼狽し、取り乱したその様子は明らかに尋常のものではない。速水の心臓が、ドクリと大きく跳ね上がる。
「何も無い事はないだろう!!具合が悪いのか?どこかが痛むのか?見せてみろ!!」
速水は、マヤが庇っている右の腰のあたりに目をやり、その状況を確認しようと手を伸ばす。
「ち、違いますから、私に触らないでッ!!」
マヤは、両手を右の腰に当てたまま、速水の手を必死に振り解こうとする。
「もしかして、怪我をしているのか?今すぐ医者を呼ぶか?」
「やだっ!お医者さんなんて、絶っ対に呼ばないで!!」
しかし、マヤは苦悶に顔を歪め、額には汗を浮かべ、自分が支えなければ直ぐに座り込んでしまいそうになる。
「マヤ!!しっかりしろっ!!」
「……ッ」
一体、マヤの身に何が起こっているんだ!?もし重大な病気だったら、怪我だったら、そう思うと血の気が引いてくる。そして、“万が一”という不吉な言葉が脳裏に浮かぶと、叫び出したい程の強烈な恐怖心が喉元から一気にせり上がって来た。…お願いだ、マヤを奪わないでくれ!こんな風に悲しい仲違いをしたままで、何一つ自分の気持ちを伝えられないままで、俺から、たったひとつの希望を、たったひとつの宝物を、奪わないでくれ!!
速水の目から、一筋の涙が流れ落ちた。それを見たマヤは、ギョッと目を見開く。
「エエッ!?わ、私、病気でも、怪我でもありません!いいからもう、私を放っておいてっ!!」
「…ッ、無理をするな!とにかく早く、ソファに横になるんだっ!」
「イヤ―ッ!離してーぇぇ!!」
速水が、暴れるマヤを力ずくで強引に抱き上げた瞬間。
何かが、床の上に静かにフワリと舞い落ちた。
「「あ……。」」
それは、可愛らしいピンク色の、フリフリした小さな布の塊。
両サイドを紐で結ぶという形状から、遊戯的視覚演出が期待できるという理由で、男性が好んで女性に身に付けさせたがるその下着は、Gストリングの一種として分類される。なお、普段着用の際には、紐が解けてしまわないようにきつく結ぶ、ストッキングを着用するなどの用心をしておかないと、公衆の面前で落下させてしまうという、生き地獄の様に恥ずかしい体験をする羽目になるので、十分に注意が必要である。その下着の名を、日本では俗に“紐パン”と呼ぶ。
もし、この場に片桐がいたら、悠長にそんな解説でもしたのだろうか?



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