Chapter12 『新しい契約書』
エレベーターを降りてマンションの玄関にビクビク行ってみると、オートロックの扉の向こう側には、速水真澄が立っていた。その手には、例の苺のぱんつ。最悪だ…。マヤは、意を決して表に出た。自動扉が静かに開く。
「やあ、チビちゃん。」
「どうも、こんにちは。」
こちらを見て悠然と笑っている速水が、今だけは無性に腹立たしい。マヤはスタスタと速水の脇を通り過ぎようとした。
「君の探し物なら、これだぞ。」
すれ違いざま、速水はマヤの目の前に苺のぱんつを掲げる。
「そ、そんなもの知りません!私のじゃないです。」
マヤは歩く速度を上げて、速水を引き離す。速水はその後ろにぴったりと付いてきた。
「素直に認めろ。今更、恥ずかしがるな。」
「違います。絶っ対に違いますッ。」
「いかにも君らしい持ち物じゃないか。あの頃からちっとも変わっていないな。君はやっぱり、相変わらずのチビちゃんだ。」
「子供扱いしないで下さい!私はもう大人です。下着だって、大人のだし!」
「そうだな。君の下着は、ピンクの紐のフリフリだったな。あれはなかなかセクシーだったぞ。しかし、大人の女性は普通、ああいう失敗をするものか?」
ケラケラと笑う速水に、マヤの沸点がカーッと上がる。なんて意地悪な、陰険な嫌味虫なんだろう!
「もー!!ホント、腹が立つ――!!」
マヤはくるりと速水の方を振り向くと、苺のぱんつを奪い取る。それをポケットに無理やり捻じ込むと、気分はもうヤケクソだった。
「なによ!速水さんだって、恥ずかしい事してるじゃない!失敗ばっかりしてるじゃない!ドラマの現場で大騒ぎして、自分の失敗が認められなくて、勝手に落ち込んで、変な勘違いして泣いたりするし、カッコ悪くて、ダサくって、私を笑える立場じゃないんですからねっ!!」
こんなの、自分でも可愛げがないと分かっている。情けなくて、泣きたくなった。速水の前では、いつだって心と言葉がちぐはぐで、制御不能になってしまう。どうして素直になれないんだろう。こんな事を言いたい訳じゃないのに、もっと伝えなければいけない大切な気持ちがあるのに、一度走り出してしまった言葉を、マヤは止める事が出来なかった。
「確かに、最近の俺はめちゃくちゃ格好悪い。ダサ過ぎる。好感度はガタ落ち。全くモテなくなった。」
「偉そうに!前は人気があったみたいに言わないで下さい!速水さんは昔からずーっと嫌われ者でしょ!」
「そんな事はないぞ。こう見えても、引く手あまたのモテモテぶりだったんだ。紫織さんとの婚約前まではな。」
急に飛び出した紫織の名前に、マヤの心臓はドキンと跳ね上がる。
「そ、そんなだから、紫織さんに愛想尽かされたんじゃないですか?だから婚約破棄になったんでしょう?」
「そうだな。こんな朴念仁では、一生俺は一人身かもしれん。困ったものだ。」
破談の原因が自分だと肯定する言葉のように聞こえなくもないが、ハハハと楽しげに笑い飛ばす速水の表情には、悲壮感など微塵もない。一体何が婚約破棄の真相なのやら、マヤがずっと求めていた肝心の答えは得られそうもなかった。こんな調子では、速水と自分が本音で向き合える日は永遠に来ないのかもしれない。マヤはガックリと肩を落とす。
「…それで、格好悪くてダサ過ぎる大都芸能の速水社長が、今日は私に何の御用ですか?」
「ああ、そうだった。契約の話だ。」
「契約??」
「君に、新しい契約書を持ってきた。前の契約は失敗してしまったからな。更新をしたい。」
そう言うと、速水は懐から何やら書類を取り出す。契約の話と聞いて、マヤはまたもや力が抜けた。そうか、“待っていてくれ”というのは、契約のやり直しという意味だったのか。所詮2人はビジネスの間柄だけなのだとまたしても思い知らされたが、如何にも速水らしいその発想に、何だかそれが一番似つかわしい2人の関係性なのかもしれないとマヤは思った。
「…判りました。見せて下さい。」
マヤは、速水に向かって手を差し出す。渡されたのは、薄っぺらな一枚の紙。ぶ厚かった以前のそれとの余りの違いに、マヤは不審に思って首を傾げる。そして、朱色に印刷されたその用紙の標題を見て、マヤはアッと驚愕した。
「…こ、こ、婚姻届???」
「そうだ。この条件に納得出来たら、ここに君のサインを。」
速水が指し示した個所は、“妻になるひと”。よく見れば、その左隣の欄には既に書き込んであるではないか。“夫になるひと”、速水真澄、と。
「…ど、どういう意味ですか??」
マヤは意味が判らず、混乱する。
「俺も、色々考えた。紅天女継承者である北島マヤが持つ、既得的、潜在的商品価値は計り知れず、大都は君と恒久的な契約関係を結びたいと、常々考えていた。だが、たった一年余りで両者の関係は破綻。その原因を鑑みるに、君と安定した平和的関係を持続させるには、従来の雇用形式ではやや問題が多すぎるという結論に達したんだ。」
「???」
堅苦しい言い回しを多用する速水の言葉にマヤは一瞬怯んだが、よくよく噛み砕いて考えてみると、何かがおかしい。
「…速水さん。なんだか難しい事言って、私を誤魔化そうとしてません?そもそも、例の件で悪いのって、全部速水さんじゃないですか。それを契約のせいにするのって、すごく卑怯だと思うんですけどッ!」
「ほう、君も賢くなったものだな。まぁ、最後まで聞いてくれ。とにかく、今までの契約では駄目だ。まるで歯が立たない。君の仕事、私生活、人生そのものを、あんな契約書ではとても縛りきれないからだ。」
「は?なんで、私の人生が丸ごと、会社に縛られなくちゃいけないですか!」
「何故かって?そんなの決まっているだろう!そうしないと、社長である俺がおかしくなるからだ!君に、ぐちゃぐちゃに心を掻き乱されて、気が狂いそうになるからだ!」
「な、なに言ってるんですか…!?なんで、私が速水さんの心を、掻き乱すの…?」
「それは例えば、あのドラマの番宣インタビューだ。私生活に関わる事をベラベラとしゃべっただろう。言っておくが、これは女優の品位とか、そんなくだらない次元の話じゃないぞ。公の場で男を刺激するような話をするな。22歳にもなって、まだ高校時代に買った下着を使っているなんて、処女丸出しもいい所だ。スキモノ男の格好の餌食だぞ。」
「!!!」
「それから、他人から貰った下着なんぞ断じて身に付けるな。芝居の小道具だとか役作りの為だとか、そんな理由など俺の知った事ではない。ドラマで使用した下着は、とにかく捨てろ。俺が新調してやる。」
「!!!」
「洗濯物を外に干すんじゃない。運よく、俺が拾ってやったからいいものの、あんな物が変態嗜好のファンの手に渡り、どんな用途に使われるのかと思うとゾッとするぞ。」
「!!!」
「あと、ベランダで叫ぶな。君の鍛えられた声は、ご近所に筒抜けの丸聞こえだ。残念ながら、あの恥ずかしい出来事は夢ではなく、現実に起こった悲劇だ。ちなみに、今日の君の下着は何だ?まさか例の紐パンじゃないだろうな?」
「!!!」
「…綿のパンツか。また脱げたりしたら、さすがの君でも再起不能だろう。あんな悲惨な事故を繰り返さない為に、分不相応な下着を穿くのは金輪際止めておくように。…ああ、俺の前だけなら全く構わんぞ。」
「!!!」
矢継ぎ早に畳みかけてくる速水の言葉に、マヤは空いた口が塞がらない。繰り出される臆面も無い要求の数々に、赤くなったり、青くなったり、白くなったり、マヤの顔色はカメレオンのように百変化していった。
「あのドラマが始まってからというもの、君の下着の事が気になって、毎日気が狂いそうだった。俺の理性は乱れに乱れて、有り得ないほど重大なミスを次々に犯した。それは全て俺の不覚が招いた事だが、二度とあんな失敗をする訳にはいかないからな。」
速水はフウッと一つ、大きく息を吐いた。
「君の下着の事を、誰にも知られたくない。知っているのは、俺だけでいい。俺だけが、君の下着のサイズを知り、君に下着を贈り、君の下着を選び、そして、それを脱がせる唯一人の男でありたい。俺は、君の下着に恋しているんだ。」
「!!!」
ボンッとマヤの顔は火を噴き、耳までもはち切れそうに熟れた、完熟イチゴのようになった。
「下着の事だけじゃない。君が今、何処にいて、どんな気持ちで、何をして、誰と行動し、何を望んでいるか。君に纏わる全ての事を、俺はいつでも把握しておきたい。それを包括的に管理する為に最も有効な手段として、俺は民法第739条に規定される、“婚姻関係”を君に申し込む。最高の契約だろう?一生に一度だけ使える、俺のとっておきの切り札だ。」
速水は得意げにそう言うと、満面の笑みを浮かべた。
それは紛れも無く、愛の告白だった。高飛車で、理不尽で、自分勝手で、我儘なプロポーズ。その言葉が本来持っている筈の、ロマンチックな甘さや、胸が震えるような感動は、一欠けらも無いけれど――。マヤは思わず、その婚姻届で自分の顔を覆い隠した。

「一生独身かもしれないって、さっき言ったばかりじゃないですか。」
「そうだぞ。君が嫁に来ないと、確実にそうなる。だから、結婚してくれ。」
「私が断ったら?」
「今はそうでも、人の気持ちは常に変わるものだ。君に愛されるような男になる為に、俺はその努力を生涯続けようと思う。その証として、この婚姻届は君が一生持っていて欲しい。」
「私、他の誰かと結婚するかもしれませんよ?」
「いつか俺の魅力に気付いて、その男とは離婚したくなるかもしれんぞ。やはり、君がずっと持っていてくれ。」
「速水さんと結婚したがってる別の女性に、こっそりあげちゃうかも。」
「君がそうすると言うのなら甘んじて受け入れる、と言いたい所だが…。頼む、それだけは勘弁してくれ。」
婚姻届の陰からこっそり覗いてみると、速水が盛大な顰め面をしていたので、マヤはプッと吹き出した。それを見て、速水もククッと笑う。そうしたらもう、全てが可笑しくなってきて、2人は声を上げていつまでも笑い合った。気が付けば、2人の横顔は鮮やかなオレンジ色に染まり始めていた。
マヤは、ふと思い至って速水に尋ねる。
「…速水さんが私と結婚したくなくなったら?他に結婚したい女性が、いつか現れるかもしれませんよ?」
「それは、絶対にない。」
速水は、キッパリとそう言った。何の迷いも、躊躇も無い、真っ直ぐな言葉だった。
「君が演劇に目覚めた少女の頃から、ずっと君だけを見てきた。君のいない人生は何の意味も無い。この人生は、君と生きる為の人生なんだ。例えこの世で君と結ばれなくても、俺は永遠に君の魂を捜し、彷徨い続ける。覚悟しておけよ。」
「……ッ。は、やみ、さん…。」
マヤの視界が、霞んで歪む。この運命は、自分ひとりのものじゃなかった。マヤは、自分と速水を結ぶ輪廻が一つに繋がっている事をようやく悟った。
――例え結ばれなくても、あなたの姿を見られるなら、それだけで幸せ。そして、もしも、あなたと結ばれる事が出来たとしたら、それは一体、どれ程の幸せなのだろう!
「俺が長年隠し続けていた秘密を、これから君に打ち明ける。君が思い描いていた理想を裏切る事になるかもしれないが、その秘密こそが、君に捧げるたった一つの真実だと誓うよ。“待っていてくれ”と書いたあの言葉を、君は覚えているか?」
「…わ、忘れる訳がありません。辛い時も、悲しい時も、私を励まし、支え、助けてくれた、大切な、大好きな、あの人の、字だものっ…。」
速水は両手でマヤの頬を包み込むと、優しく微笑みかけた。いつの間にか、マヤの瞳からはボロボロと大粒の涙が零れていた。速水はマヤの顔をゆっくりと上に持ちあげると、吐息がかかる程に近く、額と額を合わせ、2人だけの大切な秘密を、そっと静かに囁いた。
長く伸びた2人の影法師が、ゆっくりと、重なる。
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